2025年11月20日 夕方公開終了
文=堀静香
近ごろ、日記を書かなくなった。既刊の二冊のエッセイ集にけっこうなボリュームの日記を収録していることもあり、たびたび「日記をいまも書いていますか」と訊かれる。そのたび「書いています、欠かさず書いております」と前のめりに答えていたのだったが、それがすとんと、書かなくなってしまった。
原稿の日記とは別に、中学生の頃からつけている日記がある。当時は「日記」という意識はなかったし、毎日書いていたわけでもなく、ただ何か思ったことや整理しておきたいことがあると、ノートを出して日付を記して、どんどん書いた。自分だけが読むものなのだからと、ほとんど殴り書きに等しかった。
それを不定期でなく、せっかくなら毎日書こうと決めたのは、妊娠がわかった日で、以来決めた通り、こつこつ書きつづけてきた。数週間分溜めこんだものを遡って無理やり記録したり、そういう怠慢を挟みつつ、それでももう5年になる。
それを、あっさりやめてしまったのに大きな意味があるわけではなく、ただなんとなく書かなくなってしまった。多少もったいないかな、とも思いつつ、そこまでの執着もない。
当時から保ってきた動機は一貫して生まれてくる/生まれた後の子どもにまつわることである。そうして妊娠がわかった日から、自分の身体に起こる初めての体験として、体調、不安な気持ち、お腹の子の様子、入院と出産、生まれたて日々、1歳、2歳、ささやかな成長、観察したこと、気づいたそばからつぶさに記してきた。といいつつもちろん子どものことのみならず、というか結局はそれ以上に、平行して多く日常のことも書いてきた。つまりは中学生の頃の日記の延長でありつつ、育児日記、というごちゃごちゃの、自分だけのための日記である。
毎日書くのはやめてしまったわけだけれど、来月でちょうど子は5歳になるから、切りよくその日までつづけてもよかった気もする。そういう気もしつつ、本人ももうすぐ5歳になる自分、という意識を十分にみなぎらせて、なんだかこの頃たくましい。5歳、すごいなあ。けっこう切にそう思う。長かった、短かった、そういう一直線の時間ではなく、ただ折々、さまざまな子どもの姿があった。わたしや夫の感情、言葉、呼応があった。より長く育児にかかわる人にしてみれば、5歳などまだまだ、これから思春期だってあるのだから断然大変と思うかもしれないけれど、それでもふにゃふにゃの赤ん坊がここまで育ったことがわたしにとってはけっこうな節目のように思う。そういう安堵感がひとつ、「毎日記さなくては」という執着から離れるきっかけであったのかもしれない。
と言いつつ、書き残しておけばよかったなと思う出来事はもちろん日々絶えずある。
つい先日の日曜日、近所のお友だちの家に遊びに行った。恥ずかしがりの子にしては珍しく、自ら「○○ちゃんちと遊びたい」と言って、インターホンを押す(慌ててお土産を用意して、いそいそ付き添う)。ちょうど同い年の子が数人集まっており、にぎやかだ。
そこで初めてSwitchをやらせてもらうことになった。しかも、いつもゲームセンターで夫と励んでいる釣りゲームのテレビゲーム版、と来れば子としてはうれしくて仕方なく、前のめりに奮闘していたのだったが、まあ初めての操作で思うようにはいかない。周りの子たちは上手にプレイできる、その落差に落ち込む暇もなく、どんどんゲームはつづく。介入しようか迷いつつ、はらはらしながら見守っていた。泣いたりはせず、わたしに助けを求めるでもなく、笑ったり悔しがったりしながら、楽しんでいた。そんなふうに見えた。
帰り道では、○○ちゃんちたくさんおもちゃあったねー、ゲームもやらせてもらえたねー、思い切って遊びに行かせてもらってよかったねー、などと興奮気味に話しながら、帰りを待っていた夫から「どうだった? 楽しかった?」と矢継ぎ早に訊かれるや、みるみる顔はしわくちゃになり、声をつぶして泣き出した。
あーちゃんだけ全然できんかった、と言っておいおい泣く子を抱いてやりながら、やっぱりそうだったのか。ほんとうはゲームの最中、ずっと置いてけぼりだったんだな。いつもならすぐに投げ出してこちらに来るところ、一度もわたしのほうをふり返ることはなかった。必死に大きなテレビ画面に食いついている、子のそんな横顔を見ていた。ゲームなんてできなくたって全然いいのに、と思うけれどそうじゃないんだろう。「スイッチほしいよお、ずるいよお」と泣きつづけて、苦笑するほどに子どもは5歳、いやまだ5歳まであと一ヵ月もあるのだ。
とにかくその日わたしが初めて見たのは、悔しさにしろかなしさにしろ、それをいっとき自分のなかにしまっておけるひとりの姿であった。夫に促されて感情はすぐにあふれてしまったけれど、帰り道は楽しそうに手をつないで帰ったこと、きっとそのときぐっと堪えていたというわけでもなく、思い切って自分から友だちを誘って受け入れてもらえたよろこびはそれとしてちゃんと残っている。それとは別にある、悔しさや疎外感、負の感情、それらすべてがないまぜになって泣き出すまでの気持ちの複雑さを、子はきっと感じていた。楽しくて夢中でうれしくて、でも悔しかった。ほんとうはかなしかった。どれもがほんとう、どれもがあなただけの感情。忘れてしまうかもしれないから、わたしがこうして覚えておこう。
忘れられながら忘れてゆく日々の手足の先は海に繋がる/小島なお
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。

