2025年11月13日 夕方公開終了
文=堀静香
自転車がパンクした。いつものように保育園のお迎え後、子どもを乗せて走っていたところ、段差を無理に通ったのがいけなかったのか、後輪のみ明らかにがたがたがたと空気の抜け切った嫌な感じ、これはパンクだ。このまま近くの自転車屋に行ってしまえば楽だけれど、財布を持たずに出てきてしまった。一度家に帰ると子は外には出たがらない。「パンクって何?」と子どもが訊く。「タイヤのなかにあるチューブが破れちゃって、それを直してもらわないといけないんよ」と説明しながら、そう考えると案外複雑というか、いつだってタイヤのなかにはチューブが入って、けれどこうしてパンクしなければ外からは見えないチューブの存在を思い出すことはない。
翌日、自転車を買ったホームセンターに行った。夫が調べて、どうやらそこで修理もしてくれるらしい。かつ、買おうと思っていたカブトムシの幼虫育成用の土もついでに調達できる。後ろの席に子を乗せたまま店に入り、修理をお願いしたいんですが、と店員に話しかけると「パンクしてからもお子さん乗せてここまで来られたんですか?」と指摘される。もしかすると、それでタイヤ自体がだめになっちゃうこともあるんですよね、と言いつつ後輪を見て、あーこれはだめだ、タイヤも交換になりますねー。
すかさず、横に貼ってある修理費一覧を確認する。タイヤ交換1万円。ああ。つづけて、「もしかすると、もうだいぶ錆びているので買い替え時でもあるかもしれません」と助言され、たしかに1万円払うのなら思い切って買い替えてもいいのだろうか。前回ここで買ったものと似た型のもの(かなり安くてたしか2万円ちょっとだった)、電動自転車、さまざまな価格帯の自転車がみな同じ方を向いて並んでいる。腕組みしつつ眺めるが、今日買い替えるなどそんな決断力はわたしになく、しばらくぐずぐずした後、やはり今回は修理をお願いすることにした。それでもタイヤを替えたとていつまで持つかわからない、そのくらい傷んでいるらしい。雨で錆びるとどうしてもね、と店員は言った。買ったのは子どもが保育園に入る手前、だからだいたい4年前、自転車の寿命ってそんなもんだったろうか。幼虫マットを脇に抱え、子どもと徒歩で帰宅した。
思えば初めて自転車に乗った6歳の頃から数えれば30年、ほとんど毎日のようにハンドルを握りペダルを漕いできた。習い事も、塾も、友だちの家へ行くときも、高校生のときには毎日の登下校、ときに雨で遅刻しそうとなればえいやとゴミ袋を被って自転車を漕ぎ周囲をざわつかせ、大学では友人から譲ってもらった原付にも平行して乗りつつ、大人になったいまも毎日保育園の送迎、通勤、と毎日乗っている。自転車に乗る人生。傘差し運転も二人乗りも慣れたもの(いまはもう即罰金らしいが)、高校生のときに習得した両手離しはもちろん子どもを乗せて以来、やることはなくなった。自慢じゃないが一度だってけがしたことも事故したこともなく、これまでどれもぼろぼろになるまで、赤やら白やらピンクやら、6台の自転車を乗り継いできた。
短歌はたいてい、自転車に乗っているときに思い浮かぶ。すんなり一首ができることはまれだが、おりおり目に入る草木や家屋や看板や、通り過ぎる電車、橋や川、そういう町の断片、風景は自転車に乗っているとどうも目に入る。車を運転しながら考えごとがはかどるような感じで、わたしには自転車の速度がちょうどいい。暑すぎる日もここちよい日も寒い日も、自転車に乗れば風を受ける。だから実は歌集には「風」という語が異常に多い(それでもかなり削ったけれど)。だって乗っていれば必ず風が吹く。吹くというよりつねに耳で大きく鳴っている。ごうごうぼうぼう鳴る風のなかを、渡っている。後ろに乗せた子どもがあーだこーだと喋っているのを途切れ途切れに聞きながら、こうして子どもを乗せて走るのも、思えばあと一年ちょっとのことかもしれない。
修理を終えた自転車に乗りながら、空気のしっかり入ったタイヤはなめらかに走るので気持ちいい。もちろんタイヤも新品のはずだけれど、見た限りでは違いはわからない。途中、ボルゾイを三匹散歩させている男性とすれ違う(多頭飼いのルールでもあるのか、たまにこうして出くわすボルゾイは、必ずといっていいほど複数匹であることがずっとふしぎだ)。家の手前の道で、つい先日カブトムシの幼虫をおすそわけしたお隣のうちの車とすれ違って、「幼虫ありがとー」と窓越しに言われる。カブトの幼虫はうちにまだあと6匹もいる。
家に帰って夕飯を食べながら、朝刊で見た野生グマの恐ろしさを実演するため、不意打ちで夫に襲いかかる。実際にクマに襲われた人の9割が顔面をやられているという。クマと対峙したら、とにかくうずくまって顔を守る。そうしてなんとか3分耐える。そう夫に指導しながらクマになりきった。夫は本気でクマを(というかわたしを)恐れていた。
幸福と呼ばれるものの輪郭よ君の自転車のきれいなターン/服部真里子
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。

