文=T.V.O.D.
パンス 電気グルーヴの現在。事件そのものについて現時点で言えることがあるとすれば、「全くたいしたことじゃないだろ!」ってだけ。これは僕の意見ね。
しかしこの事件を取り巻く状況については述べておきたい。ワイドショーなんかを見るとびっくりするようなバッシングが巻き起こってる。やり過ぎだと思う。それが日本の世間ってもんだという意見も分かるよ。だけど、なまじ身近な存在だったからこそ、抑圧の過剰さを強く実感しちゃうんだよね。発売自粛措置にも僕は反対。僕のなかでふつふつと、社会に対しての苛立ちが湧いてきてるんだよね……。
コメカ 電気グルーヴはその長い活動を通して、メジャーシーンとマイナーシーンのあわいを絶妙に渡り歩き続ける特異な「キャラクター」として在ったと思うんだけど、今回の出来事で彼らの「キャラクター」はまたこれまでと違う色合いを帯び始めた。まだそれがどこに着地するのかは分からないけども。ただね、確実に言えるのは、この出来事を通して「日本の世間」と「電気グルーヴというキャラクター」が真っ向から衝突する事態になったってことで。彼らは若いころにはそれこそ「世間」に対してカウンターな態度を露悪的なまでに取る人たちだったけど、近年は電気は「世間」みたいなものとサブカル的なものの間をすり抜けるように歩き続ける存在になったとぼくは思ってたから、正直この事態に驚いてる。昔よりも何倍も洗練された形で電気グルーヴが「世間」に対してカウンターをかます事態に、結果的になってしまった。なんというか、「日本の世間」が持つ問題を脇に置いてやり過ごすやり方ってのは、もう成立しないんだなあとも改めて思ったな。それと対峙せざるを得ない。それもぼくのなかでは、「ポスト・サブカル」的な感覚なんだけど。
パンス いや「世間」自体が過剰になってるでしょ。厳罰主義。もともと日本社会に備わってたものだけど、メディアも市民もモラルに対しては厳しくなってるんじゃないかね。それと、叩いていい対象と叩かない対象が巧妙に峻別されるようになってきている。そんななかでかつて「サブカル」が担ってたあり方みたいなものもバッシングの対象になり得るということをこの事件は示している。だからサブカルはマジメになりましょう、コンプライアンスを厳密に遵守しましょうという結論だけでよいのかなという疑問が僕にはある。もちろん個別の案件について議論はされ尽くされるべきだと思うけど。ここにコメカ君と僕の立脚してる位置の違いがあるんじゃないかな。いずれにしろかつてあったものが「焼け跡」になりつつあるということだよ。
コメカ まあぼくも、「サブカルはマジメになりましょう」とは思ってないんだけど、「遊びの時間が終わる」みたいな感覚は正直あるな。かつてあったものがサブカルチャー的なメディア空間、つまり政治や「世間」から切断された遊び場みたいなものだったとするなら、それは確実に焼け跡化して失われつつある。そういう空間に出自を持つ存在のなかでも特に稀有なクレバーさを持っていた電気グルーヴという「キャラクター」ですら、「世間」のなかでの抑圧や相互闘争に巻き込まれることになってしまった。遊びの時間にとどまり続けることが難しくなってしまったというか……。「世間」の厳罰主義的な志向がより強くなってるってのも確かにあるだろうけど、それこそその中を生きる誰もが「キャラクター」化してしまったことで、「ちょっと一言よろしいかしら」的に(笑)あらゆる「キャラクター」たちがいっちょ噛みしたがる状況が、現状の原因である気もするけどね。個人として何かを考えたり発言したりするより先に、自分が周囲に認識されている「キャラクター」に即したいっちょ噛みを脊髄反射的にやってしまう。焼け跡のなかで「キャラクター」たちがひたすら相互衝突を繰り返してるような状況(笑)。
パンス 何でみんなあんなにクソリプチャレンジできるのか不思議なんだが、やってしまうんだよ。そういう環境になってしまった。世間に依拠した「群衆」の立場から、当事者までいっちょ噛みできてしまうから大変なことになってるという。80年代以降のサブカルを取り巻いていた精神性ーーというのを本連載では分析していったわけだけど、最初はスノッブな遊びだったかもしれない。それらはインターネットでの立ち振る舞いに薄く受け継がれて、多くの人が手にするようになった。反復され続けるなかでより希釈され続けているというのが現在だと思う。当人たちは「面白いことを言っている」と自己認識している。それは確かに自分をキャラ付けしようとする試みでもあるのかもしれないけど、もはや焼畑農業のようにも見える。焼け跡から焼畑になってしまったが(笑)、さてそんな状況下でどうするかという……。
コメカ 焼け跡ってのはつまり、「戦後」の終わりみたいな状況をぼくらはイメージしてたと思うんだけど。それも、輝かしい「ポスト・戦後」が訪れるわけではなくて、焦土化し焼け跡化した社会がやってくる……というね。サブカルチャー的な余剰空間みたいなものが消えてしまうのも、その一貫というか。つまるところ、「戦後」という状況が曲がりなりにも一応担保していた公共性が失われてしまうことに、もう歯止めは効かないだろう、という現状認識ですね。そして厄介なのは、その焼け跡のなかでは、かつてのサブカル空間で行われていたような「人間のキャラクター化」が、ネットを介して無限に反復され続けているというか。ぼくらがここまで話してきたのは、70年代に編み出されたサブカル的「キャラクター」化の作法が、ある意味で陳腐化し大衆化していった軌跡であるとも言える。
パンス うんうん。だから「すべてが焼け落ち消えてしまった、空虚な状況……」みたいなのとはまた違ったイメージを持ってる。プロローグでも述べた通りこのタイトルは野坂昭如インスパイアなんだけど、実際に「焼け跡」があった敗戦直後というのは、飢えと戦争の記憶のなかで、むき出しの欲望が氾濫し、降って湧いたような「民主化」が訪れた時代。坂口安吾でもいいし、山田参助のマンガ『あれよ星屑』を読んでいただければ。いまにムリヤリ置き換えるならば、有象無象の「なんか言いたい」人々の欲望が衝突しまくるなかで、現実の社会問題が押し寄せてきてる、みたいな。
コメカ だから、焼け跡になっても結局「終わらない」んだよな。むしろ、焼け跡のなかで「キャラクター」たちは今後も増え続けるし、それらの相互衝突は起き続ける。でね、この現状のなかでは、それこそ大森靖子編で話したような、「自分が自分を眺める視線を信じる」ような態度が重要になってくるんじゃないかとぼくは思ってて。いまの石野卓球も、他人や「世間」が自分を眺めてくる視線よりも、自分自身が自分を眺める視線に基づいて、それを裏切らないように行動しているように思える。「キャラクター」というのは往々にして他人の視線に媒介されてつくり上げられるもので、かつ誰もが「キャラクター」にならざるを得ないのがいまの状況なんだけど、だからこそ自分の視線を信じて「キャラクター」をつくり上げることがオルタナティブになり得るというか。社会状況が焼け跡化しても、70年代以降続いてきたサブカル的な流れ、つまり、人間の「キャラクター」化を介したコミュニケーションやストーリーテリングが消滅するわけではない。むしろそれがバッドな形で反復され、拡大され続ける。だからこそこれまでの流れを確認し、今後について考えることが必要だとぼくらは考えたわけです。そういう意味での、「ポスト・サブカル焼け跡派」。そうしてやって来る2020年代を、いかにして生き延びるか。ぼくらも自分たちなりに「キャラクター」化しながら(笑)、行動し、考え、話し続けようと思っています。「キャラクター」たちの相互闘争から降りてしまうのでもなく、ただひたすら他人の視線に動かされ続ける「キャラクター」に成りきってしまうのでもなく。焼け跡のなかで「キャラクター」として闘うことを受け入れながら、個人としての自分自身に立脚した「キャラクター」をつくり上げること。そういうやり方のための試行錯誤を、これからも続けていければと。そのための第一歩としてのこの連載を、皆様ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。TVOD、今後もいろいろなアクションを続けていきます。よろしくお願いします!
(本連載は今回をもって終了します。これまでご愛読どうもありがとうございました)
T.V.O.D.(てぃーゔぃーおーでぃー)
毎週土曜日、tumblrで政治や文化についての記事を更新しているテキストユニット。URL https://tvod.tumblr.com こめか/1984年生まれ。サブカルチャーや戦後民主主義が好き。テクノポップバンドmicro llamaのメンバー。Twitter @comecaML ぱんす/1984年生まれ。地図と年表を見るのが好き。Twitter @panparth
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ってたら昨夜の『傷だらけの天使』(最終回の)再放送で「遊びの時間は終わった」という台詞があってシンクロニシティにちょっと吃驚。
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