2023年04月09日 夕方公開終了
向坂くじら(さきさか・くじら)
霊感がない。心霊のたぐいと触れあう機会がない。姿を見ることもないし、声やら異音やら聞くこともない。金縛りにだけは遭うけれど、疲れてソファで寝てしまったときと決まっていて、心霊現象というには理に適いすぎている。ときに暗いところを怖がってみせたりするのも、なにも感じていないくせに雰囲気で言っているだけである。さびしい。わたしばかりがおばけに会えない。詩人という仕事への偏見で、「えー、霊感ありそうなのに!」などと言われるとなおむなしい。霊感があった方がかっこいいに決まっているし、わたしだってやさしいおばけなら会ってみたいが、ないものはないのだ。ちなみに霊感のある人の言う台詞でいちばんかっこいいと思うのは、「ここは、霊の通り道になっていますね」。せめて、配膳でカトラリーを多く出しすぎることを「おばけの分まで出す」と呼び、ささやかに心の穴を埋めている。
という話をしていたら、「じゃあ、心霊スポットとか余裕で行けますね!」と言われた。行けるわけがない。霊感がないからこそ、いわくつきのところ、やさしくないおばけがいるようなところには絶対に行きたくない。ハンデだと思うからだ。霊感のある者たちが身の危険を察知するときにも、わたしだけがへらへらしている。みなが一目散に逃げ出しても、「え?」とか言って突っ立っていて、いち早く死ぬ。わたしがなにかとんでもないものを肩に乗せて連れて帰ろうとしていても、誰もおそろしくて言い出せない……なんてこともあるだろう。怖い怖い。見えない方が明らかに怖い。
とはいえ、一度だけ「心霊スポット」に行ったことがある。旅行会社のパッケージで泊まることになったホテルをなにげなくウェブ検索したら、出るわ出るわ、「心霊」「幽霊」の関連ワード、古い部屋の写真、おもしろ半分で泊まったというブログ記事。同行する夫に話すか悩んだけれど、結局言わないまま当日を迎えた。夫がひどく嫌がることは予想できたし、わたしだって怖いには怖いのであって、一緒に怖がられるよりもなにも知らないでいてくれる方が心強かった。
ところが、いざホテルの部屋に着くなり、夫が部屋の隅にある洗面台を指差して言う。
「なんか、あのへんが、怖い。いやな感じがする」
まさか。ふだんから霊感じみたことを言うわけではない、そして、このホテルの前評判はなにも知らないはずの夫だ。それが、そのときは冗談でなく怯えているようだった。いよいよまずいことになってきた、と思うものの、わたしの身体はなにも感じていない。言われてみると部屋全体がうっすらと暗いし、よくよく考えるとまずツインのベッドが並ぶ隣に洗面台だけがぽつりとあるのはちょっとおかしいが、でもそれだけだ。特にいやな感じもしない。
しかし、夫の怖がりようを見ていると、わたしはなにか見逃してはいけないものを見逃しているのではないか、そしてこれまでもずっとそうしてきたのではないか……という気がしてならなかった。おばけを透かしてしまう鈍いわたしの目、もしかしたらおばけのいるところを平気で通りすぎるかもしれない、ぼんやりしたわたしの身体。怖い怖い。わたしたちは洗面台から離れた方のシングルベッドに鮨詰めになって眠った。言うまでもなく、朝には身体中が痛かったけれど、これもまた理に適いすぎていて、心霊現象というにはしっくり来ない。
悪夢を見て目覚める。心臓がばくばく言っている。悪夢にもレパートリーというものがある。わたしの定番は、通り魔やテロリストから逃げる夢、誰かを息切れするほど罵る夢、まちがって子猫や小鳥を死なせる夢。しかしいちばん多いのは、「なにか間違えている」というやつだ。「間違える」ではなく、「間違えている」。気づいたときにはすでに、自分の間違いのあとに立たされている。
夢のなかで、わたしはなぜか名古屋にいて、突然その日に東京で仕事があることを思い出す。急いで電車に乗るけれど、あきらかに間に合わないことがわかっている。冷や汗をかきながら、何度も乗り換え検索をくり返す。どれだけ最適な経路を探しても、二時間以上は遅れてしまうだろう。まだ連絡は来ていない。なにか連絡しないといけない。電車はなぜかものすごく暑い。揺れの等速なリズムで、意識がおかしくなってくる。それでいて同時に、ひどく冴え渡ってくる。
ほかの夢では反対に、わたしは車に乗りそこなう。車には夫とその両親、友だち連中、そして現実にはいないわたしの産んだ子どもが乗っていて、それがわたしを忘れて砂漠を出発する。遠ざかるエンジン音。薄着で砂漠に立ちつくすわたし。どうしてこんなことになったんだっけ? どこで間違えたんだったっけ。いまつい砂の動くのを見てしまっていて、だから、呼ぶ声を聞きそこねたのかも、わたしが。もしくはわたしのいないあいだに、わたしをここへ捨てていくことが決められたのかも。なにか粗相を、わたしが、したために。
もしくはわたしは舞台袖にいて、あと数分で舞台に出なくてはいけない。これもまた急に思い出す、そうだ、今日はわたしのワンマンライブがあるのだった。どうしてこんなに準備しないままここに来てしまったんだろう? いつもやっている詩の朗読のパフォーマンスのためには手元に原稿が必要だが、その紙もない、暗唱できるものだけでいけるか、でもすでに舞台上で待機している相方のギタリストと打ち合わせしたことも覚えていない。即興、の二文字が頭をよぎる、観客のざわめきが聞こえる、理不尽だと思う、しかし、どうせわたしが間違えたんだろう。
シチュエーションは違っても、至る結論はいつも同じだ。よくわからないけれど、おそらくわたしの間違いによることであるに違いない。わたしは苦々しくそれを受け入れる。次の手を打たないといけないのに、冷や汗が出てきて、いっぱいいっぱいになってしまう。
「手続きに書類が必要なんですが、本日はお持ちですか?」
市役所でそう聞かれた瞬間、さあっと体温が上がるように思う。これは夢ではない、現実の先週のことだ。書類? 見たことも聞いたこともない。覚えがなさすぎて、しまった、という感じもない。
「す、すみません、持ってないです……」
「郵送でご自宅に届いていませんか?」
「と……どいてないと思うんですけど……」
一応そう言ってみるけれど、そのときにはすでに覚悟をしている。そんな書類は知らないけれど、しかし、わたしが間違えているに違いない。あんまりぼんやりしているから、自分が忘れたことさえ忘れているだけで。どうせならもう少しだけぼんやりして、自分が悪いのでないと居直れたらよかったのに、そうすることもできない。なんだかわからないが自分に非があるに違いない、という、手触りのない確信の中で、わたしはすっかり黙ることしかできなくなる。市役所の人は気まずそうに通告する。「そうすると、本日はこの手続きはできなくなってしまうんです。書類はお手元になければ再発行をしていただいて……」申し訳ないからわかった風に頷きながら聞くけれど、しかし、わたしはいつまでこのことを覚えていられるだろうか? この気まずさが、しつこくわたしを魘(うな)すのだった。
たぶん、そんなふうだから、霊感もないのだ。なにもかも見逃し、覚えるはしから忘れてしまう、わたしの鈍い脳みそ。霊感がないからおばけが怖い、市役所も怖い。
悪夢のレパートリーにはもうひとつあって、それが夫にふられる夢だ。死にそうになりながら起きて、だいたいわたしより早起きしている夫に飛びつくけれど、どうも反応がふるわない。適当になぐさめてくれたらいいものを、「君の夢のなかのおれは、おれとは関係ないからね」などと冷遇する。
「そんなんはわかってる。であればなおさら、現実のおれはふったりはせんと明言しろ」
「ヤダ」
「なんでじゃい」
「ふだんのおれ見てたら、わかるでしょ。わかんないとしたら、そっちのほうが悲しいよ」
悲しい、と言われて、つい夫の顔を見上げるけれど、夫はこちらを見ていない。
言いたいことはわかる。自分はふだんから愛情を示しているのであって、ここでわざわざそれを明言する必要はない、というのだ。さらに言えば、明言しろと言われること自体、それ以前にわたしがそんな夢に魘されていること自体、ふだん彼が愛情表現のために行っている努力を無下にされるように思える、ということだろう。
わたしだって、と思う。わたしだって、夫を疑っているわけでもないし、ふだんから不安でいっぱいなわけでもない。そう思われたら悲しい、というのだってわかる。日ごろの夫の態度にだって、人並みにうれしく思ったり、胸をうたれたりしていると思う。でも。
「でも、わたしが誰かのふるまいを見て憶測したことは、だいたい間違っているんだよ……」
霊感がないから、他人のことがわからない。
嫌われても好かれてもなかなか気がつかない。かなり後になって知って、ぎょっとする。ほめ言葉だと思って舞いあがるとうまくいかないし、それで「なるほど、社交辞令というやつがあるのだった」と受け流すようにすると、今度は本心だったらしい相手にさびしい思いをさせる。気に病んだことほど相手には大した問題ではなく、許されている気がしたことほど根に持たれている。これもまた、鈍いなら鈍いで開き直っていられたらもっとかわいげもあったかもしれないけれど、違和感が生まれた瞬間に、例のあきらめが襲ってくる。ああ、また、わたしが間違っていたのだな。
だから、「相手にどう思われようが気にしないことにしている」と美学のように言い切る人を見ると、おそろしく、またくやしい。霊感のある人の肝試し、度胸じまんだと思う。寒気がしたり音が聞こえたりしてこそ心霊スポットできゃあきゃあやれるように、まず相手がどう思っているか察知できてようやく、そのように気にするかどうかを選ぶ段階を楽しめるのだ。わたしはそのステージにも立てず、間違えてしまってはじめて、相手がどう思っていたかの片鱗を知らされる。そのときにはもう取り返しがつかず、皮肉にもわたしもまた「気にしない」ことにするほかなかったりする(そういう人のほうが、ひょっとしたら多いのかもしれないが)。選べるなんて、うらやましい。見えない方が明らかに怖い。
それが夫となると、なおさら。そんなふうだから、わたしにとって他人と付きあうことは、いつ作動するかわからない自分の間違いを抱えつづけているようなもので、ひどく心もとない。それでどうしても、晴れや雨を待つように大らかにかまえたくなってしまう。事実、誰に失望されようとも、それなりにへっちゃらでやってきた。しかしそれが、夫に対しては上手にできない。わたしの鈍い心は、夫の発する微細なシグナルをなにもかも見逃しているかもしれず、いまも知らず知らず夫をがっかりさせているかもしれない、そしてめずらしいことに、夫をまだ失いたくないと思っているのだった。
「絶対言わないよ」と夫が答える。「ふだん自分が感じてることがわからないんだったら、おれがいまなんて言ってもわからないよ」
「でも……」と言ったきり、わたしはなにも言えなくなる。そして、わたしたちは沈黙する。沈黙がなにかを伝えあえるとは思わない。夫の言うとおりだ。相手が感じていることはおろか、自分が感じていることさえ、わたしにはよくわかっていない。夫は自分の感じていることがわかるんだろうか。わたしのために喜んだとして、それが誤認でないとどうして確信できるんだろう。そればかりか、わたしの感じていることまでわかるというのか。薄暗いホテルで、湿った暗闇のなかにある自分の心を思う。わたしの目には見えない、透きとおる夫の心を思う。わたしたちは沈黙しつづける。ただそばにいるだけでわかることなんて、絶対にない。
夫のことが好きだ。
(次回更新4/9、「14-昼下がりが/部屋を/包んだ」)
撮影:クマガイユウヤ
向坂くじら(さきさか・くじら)
2016年、Gt.クマガイユウヤとの詩の朗読とエレキギターのパフォーマンスユニット「Anti-Trench」として活動開始。詩と朗読を担当する。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」、谷川俊太郎トリビュートライブ「俊読」など、多数出演。2021 年、Anti-Trenchファーストアルバム「ponto」「s^ipo」二枚同時発売。同年、びーれびしろねこ社賞大賞を受賞。2022年、第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)を刊行。同年、埼玉県桶川市にて「国語教室 ことぱ舎」を創設。慶應義塾大学文学部卒。
しーなま (@shiinama)
13-ああ、また、わたしが間違っていたのだな https://t.co/88Iyas3KI4 ふんふんとうなづきながら読んでいたら、まさかの最後、ちょっとキュンとした。