2025年12月25日 夕方公開終了
文=堀静香
最後はここぞと、夫の悪口を書きたい(いつか腰を据えて書こうと思って温めすぎてしまった)。端的に言うと、夫はお節介である。過剰に人の世話を焼きたがる。パソコン買い替えようかな、とつぶやくと勝手によさそうなものを比較検討してくれる。外出するのに、わたしには寒くなるからと上着を持って行くよう促しながら、子どもの着替えだなんだとどんどんリュックに詰め込んでは大荷物になる。そうしてわたしや子どもの世話を焼くのみならず、他人の世話も広く焼く。勤務校の学生の世話を焼き、保育園の他の子どもたちの世話を焼く。自分の思考、アイデア、行動が、必ずや誰かの役に立つと思ってはばからない。聞けば高校生の頃、文化祭実行委員として張り切り過ぎて周囲を置き去りにしクラス全体を敵に回したらしい。それでお節介を焼かれるたびにわたしは夫を「いよっ、さすが文化祭実行委員!」と囃す。
文化祭実行委員の朝は早い(パン屋の朝は早い)。いや、すみません別に早くはないです。7時に起きて、起きれば早速子どもから「パパ遊ぼう」と誘われる(子の第一声は毎朝それである)。主に戦いごっこのはずだが、もはや登場人物は数え切れず、設定も細かくまた込み入りすぎている。しかも子は監督目線なのか、夫に指示を出すばかりで、さまざまに使い分けられた夫の声が聞こえてくる。ちなみにこのとき、わたしは完全に蚊帳の外である。「君も参加してよ! ひとりでいま5役もやってんだよ!」と言われるが、完成されたふたりの世界観にいまさら素人が入っていけるわけがない。
お節介というより、ただ何にしても過剰なのかもしれない。そんなに張り切らなくてもいいのに、と傍からは思ってしまうことに、夫は本領を発揮する。それが他者に向けられれば、どうやら都合のいいことに「気の利く人」として映るらしい。特に保育園のママ友たちから夫の呼び声は高く、それがわたしは気に食わない。いつもひとりで先回りして勝手に考え、立ちまわり、場合によってから回り、誰かのために奔走して疲弊し、あげく知恵熱を出す。外面ばかりよく、言ってしまえばそのふるまいはパターナリスティック。だからわたしは夫が許せない。
そんなふうに夫のやることなすこと、何かにつけて目に(というか鼻に?)つくたびに文句ばかり垂れていたら、とうとう「君って、世界で一番私のこと嫌いだよね!!」と言われてしまった。「たしかに夫アンチかもしれない」と言って笑った。わたしは夫のいちばんのアンチ。
けれど、実はアンチとはアンチファンのことである。腐すためには誰よりも相手を知らなければならず、ゆえに単なるファンよりもよっぽどその人のことに通じている。いちいち夫の挙動に関心がある。今日何した? 誰とどんな話をした? などの聞き取りから、会話のなかに生じるちょっとした言動の齟齬、矛盾も見逃すことはない。そうして隙をついて攻撃をし、勝ち誇っている。わたしはいったい何をやっているのだろう。
夫に限らず、悪口ならいくらでも言える。久しぶりにスタバに来たら、なんだか殺伐として居心地が最悪だった。スタバってこんな雰囲気だったっけ。20代の頃、地元横浜のスタバで夜遅くまでぼんやりするのが好きだった。いつからか、もうここはのんびりコーヒーを飲む場所ではない。もちろんおしゃべりをする人もいる。けれど大半は何かの「目的」のために、時間を有効活用するために来ている。そういう殺気のようなものがスタバにはあって、すこぶる居心地が悪い。
スタバに来た理由はただひとつ、クリスマスを感じたかったからだ。地方にいると、クリスマス感を味わう場所がケンタッキーかスタバしかない。わたしは、とにかくクリスマスソングが聞きたいのだ。ケンタッキーは人がいなさすぎて居座るのは忍びなく(それでも竹内まりやの「すてきなホリデイ」が聞けて満足した)、それで今日はスタバに来たのだった。けれど店内にかかっている曲はふだんアマゾンプライムで聴くメドレーとおそらく同じもので、もっとちゃんとやれよ、とがっかりする。殺伐とした空間の、アマゾンプライムクリスマスメドレー。しかも、カロリーを気にしつつ食べたパンプキンマラサダが前のめりにまずくてもうスタバには来ない。席を立とうと思った瞬間、一番好きな「Wonderful Christmas time」が流れたので座り直して腕組みをして目を閉じて聴いた(アマプラのメドレーにも入っているのだけれど)。
5歳になったばかりの子どもことあーちゃんは、毎日のようにクリスマスプレゼントに何をもらうかを画策している。つい先月誕生日プレゼントをもらったばかりなのに、なんというか子どもにしても物欲というのはほんとうに際限がないことを思い知らされる。つけっぱなしにしているYoutubeからは「いい子にしていないとサンタさんは来ないんだよ~」という、アンパンマンの人形を使ったクオリティの低い道徳が流れて、げんなりする。
「となりのトトロ」では、トトロに会えなかったことにがっかりするサツキとメイに、お父さんが「運がよければまた会えるさ」という場面がある。これが、「いい子にしていたら会えるさ」では台無しだなと思う。サンタクロースだって、ほんとうには似たようなものであってほしい。「いい子」にしているから、来るのではない。そういうしつけの脅しのために、サンタが存在するわけではない。
日曜日、夫と買い物に出かけた子どもがおもちゃ売り場で引っくり返っている写真がLINEで送られてくる。ほしくてたまらないおもちゃがあるのだという。すがるようにしてかかってきた電話に「今日は何の日でもないでしょ、おもちゃ買うなんて言ってないよ」となだめると食い下がって「でもいまほしいんだもん」と子は泣きながら訴える。
どんなにわがままでも、どんなに言うことをきかなくても、ご飯を残しても、歯を磨かなくても、サンタクロースはやってくる。そのことを、子どもは知らない。知らないで泣いている。脅し文句を使うことはないので、いい子にしていないと来ない、とも思っていない。ただ、いまおもちゃがほしくて泣いている。そして、過剰に世話焼きな人間と、隙があれば悪態ばかりつくふたり組がサンタクロースの正体であることを、子どもは知らない。
わたしがクリスマスを好きなのは、というか以前も書いた通りクリスマスソングを聴くとどうも涙が出てしまうのは、幼い日のしあわせな記憶があるからだ。家族で囲んだ食卓があって、ツリーがあって、鶏の丸焼きがあった。クリスマスソングが、流れていた。当別裕福だったわけではない、ふつうのクリスマスがあったことを、それが実はほとんど奇跡のようだったことをいまさら思う。ほんとうには誰にとっても、そんな日があるべきで、それは商戦目的でしかないクリスマスなんかじゃなくても全然よくて、それでもクリスマス。イスラエル支持企業であるスタバやケンタッキーの不買を選択する人がいる、知っていながら、クリスマスの雰囲気を味わうためにわたしは足を運んでしまう。しあわせの象徴がクリスマスだなんて、だってあんなにきらきらしていたスタバも、小学生のときに友だちといつまでもおしゃべりをしたケンタッキーも、ほとんど幻だ。幻に縋らなくても、ほんとうにはいいはずなのに。
義母から送られてきたマインクラフトのアドベントカレンダーを、子どもは我慢できずに11/30に開封してしまった。ほんとうは12月が始まる明日から開けるんだよ、毎日ひとつずつ、クリスマスが来るのを楽しみにするためのものなんだよ、といくら説得しても「明日がまんするからいい」と言って聞かない。5歳に、明日やあさってまで引き延ばされたわくわくなどむろん、意味がない。いま、開けたい欲望こそすべてである。大丈夫、それでもきみに、サンタクロースはちゃんとやってくる。いつか迷惑がられる日が来ても、うちに世話を焼きすぎる人間がいる限り、おそらくサンタは毎年やってくる。そのことを、いまから謝っておこうと思う。
ひとりずつひかりはじめてもうだれも街を流れる星なのでした/笹井宏之
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。

