2025年06月19日 夕方公開終了
文=堀静香
よく人から「考えすぎだ」と言われる。いや、そう書き出してみて、じっさいには面と向かって言われるわけではない。いくらわたしがくよくよ悩み考えまくっていても、だからこそ目の前で「考えすぎだよ」なんて禁句なことくらい、相手もわかる。だからほんとうには、ほとんど言われたことはない。大学生の頃、デリカシーのかけらもない元カレに何度か言われたくらいで、だからその記憶と、あとは自分の本を読んだ読者からの感想でそんなふうに書かれるのを目にすることが多い、というだけだ。これだけうじうじ考えまくっても、そしてそれを逐一伝えても一切面倒がらない夫という存在は、そう考えればなかなか稀有なのかもしれない。
加えて「生きづらそう」というのも本の感想としてよく目にする。ほお、そうか。むろんどのようにであれ、読んでもらえることはうれしいので一個一個の感想に、目に角を立てるわけではない。ただ、誰かにとってのわたしというのは、そういうふうに映るのだな、と思いはする。
3冊目のエッセイ集の帯には、「生きることに慣れないことの天才を感じました」と書いてもらった。歌人の穂村弘さんにである。穂村弘をしてそう言わしめるわたしの生きにくさ。穂村さんいわく、わたしの魂には「永遠の初心者マーク」が貼られているらしい。いや、むしろ人一倍図太いし鈍感なのだ。それでいて、いつまでも答えの出ないことをうろうろぐるぐる考え続けてしまうのは癖でしかなく、そのふたつはわたしとしては、まったく矛盾しない。
「いきいき元気に考え過ぎる!」をモットー(?)にやってきたわけだが、たまには滅入ったりもする。何か大きな出来事があった、というわけではなく、些細なことでもさまざま重なれば、わたしでもそれなりにしょげる。
そんな折に手にした『セルフケアの道具箱』(伊藤絵美)がとてもシンプルでわかりやすく、励まされるような、とにかくしっくりくる、ということが少し前にあった。そこで初めて、「マインドフルネス」なるものを知る。言葉自体はこれまでになんとなく聞いたことはあったけれど、そのなんとなくの印象で、勝手に胡散臭いものだと思っていた。マインドフルネスは心理学のうち、認知行動療法と呼ばれるもののひとつで、自分の負の感情を(だから自分はだめなんだ)などと評価せず、ただ受け止める、そしてそのまま流す、という実践をたとえば指すらしい。たしかに、何かにつけてすぐに自己嫌悪に陥ったり、他人の言動から思い込みを発動してしまう、というのは思い当たる節がある。他にもマインドフルネスにおけるさまざまなワークが紹介されており、どれも思ったよりも簡単そうだ。ひと粒のレーズンを観察し、匂いをたしかめ、ゆっくり味わう。「今、ここ」に五感を集中させるという「レーズンエクササイズ」も興味深く、へーと思いつつ、ただそのときに実践するということはしなかった。いままで知らなかった領域の本を読んで、それで案外すとんと気持ちが楽になった、そう感じられて十分だった。
レーズンエクササイズ、とは呼べないが、家でひとりで取る昼食というのは、考えようによってはマインドフルネスに近いのではないか、と気まぐれに思ったりする。
食べたいものを食べたいように作って食べる。誰の目も気にしない。いっとき、新聞やチラシを読みながら、スマホを繰りながら食べていたのを辞めて、「食べるときは食べるだけ」にしてから、そう思うようになった。
昼はたいてい残り物で済ませることが多いけれど、作る余裕と気分とで、もしそのとき食べたいものがあれば、それこそ前回のオムライスのようにささっと作る。ただ、あまり重いと午後に響くので、となると麺類がよく、ヘルシーさも加味して蕎麦を選ぶことが多い。
それで、わたしなりに行き着いた至上の昼ご飯が、「納豆きのこ蕎麦」なのだった。名の通り、きのこと納豆の入ったあたたかい蕎麦で、なんということはない。小鍋に醤油、みりん、酒、出汁の素を適当に水とともに入れ、えのきやしめじ、納豆その他油揚げやわかめなどそのときある具材を放り込む。納豆はタレと混ぜ合わせてから入れる。からしは避けておく(後日パックで食べるときにふたつ使う)。隣で蕎麦が茹であがれば器に盛って、きのこ納豆汁をかける。ポイントは薬味として最後に葱を大量に乗せること、七味をこれでもかとかけること。天かすも欠かせない。すると、器はけっこうなボリュームになるわけだけれど、カロリー的には多分たいしたことはない。
それを、ただ黙々と食べる。喋る相手もいない。スマホも見ない。具から食べ進めて、煮えた納豆は粘りもなくなってほくほくしている。かわりに汁にはとろみがついて、いつまでも熱い。すぐに汗をかく。鼻水が出れば、思いきりかむ。メガネが邪魔で、外す。ふーふーやりながら、どんどん食べ進める。蕎麦とわたし、わたしと蕎麦。店であれば、こんなに思いっきり洟はかめまい。蕎麦だって、人前であれば一度で啜りきらないと、なんだかいけない気がする。でもひとりなら途中で噛み切ってもいい。暑くなれば、靴下や服を脱いでもいい。膝を立ててもあぐらをかいてもいい。と書きながら、どうやらマインドフルネス云々というより、家でいかに気ままかつ下品に食事をしているか、という告白になってしまったような気がする。
食べ終わる頃には額はもちろん、首や胸まで汗をかいて、ちょっとしたデトックスの感がる。汁はほとんど飲み干してしまった。ラーメンでもなんでも、汁は全部飲むなとよく父に言われた。そもそもあたたかい蕎麦なんて、実家でも食べなかったし、納豆も母が好まずあまり出てこなかった。蕎麦といえば駅そばで、なんだか急に富士そばが恋しい。地方に富士そばはない。コロッケ蕎麦が無性に食べたい。匂いや味をなど、五感いっぱいに感じるというより、ただ好きなように食べて、食べながらおりおり、浮かんでくることを思ったり考えたりする。
なんだか思ったより満腹で、汗が引く頃にはきっと眠くなる。
にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて/佐々木朔
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。