2025年03月13日 夕方公開終了
文=堀静香
週末、IKEAに行った。うちから一番近いIKEAは福岡にあり、車で2時間かかる。となるとなかなか行く機会はなく、今回は夫の布団カバーがいよいよぼろぼろになり、新調するのが目的だった。布団カバーなんて本来どこのでもよく、近所でいろいろ探すもののぴったりのサイズがない。元の布団も結婚当初IKEAで買ったもので、深く考えずに買ったそれがいわゆる一般的なダブルサイズとは規格の異なる寸法、ならばカバーもIKEAで揃えなければ合わないのか、と結局IKEAに縛られてしまう。
もちろんオンラインストアもあるが、最近車を買い替えたこともあり、せっかくならドライブがてら、あのばかでかくて黄色い「IKEA」のロゴを久しぶりに見上げるのも悪くない。前に帰省した際、時間つぶしに立ち寄った渋谷のIKEAには心が動かなかったから、時間をかけてどでかいIKEAに勇んで出かけることで得られる何がしかの感慨、というものがあるのだと思っている。
巨大倉庫としてのIKEA。テーマパークとしてのIKEA。入ってすぐに奥のほうからやってくる、これはなんの匂いなのだろう。広い場所の匂い。つめたい家具の匂い。一階の奥にある100円のホットドッグがわたしは好きで、ケチャップとマスタードを下品なほどかけまくって飲むように一息で食べ終えてしまう。夫は「せっかくならちゃんと食べようよ」と2階のレストランの方へ行きたがるが、スウェーデンのミートボールなどは一度食べれば十分で、実は魅力的な食べ物はあまりない。ホットドッグで済ませたがるわたしを夫はドケチ呼ばわりするけれど、食べたくて食べているのだからはなはだ心外なのだった。
祝日ということもあってか、予想していたとは言え人は多い。ホットドッグで腹ごしらえをしてから2階のショールームを回る。部屋を模したディスプレイのソファに深く腰かける男女があまりにもくつろいでいて笑ってしまう。自分ちかよ。ドラマのセットのような洒落た家具や小物の計算された配置、つくり物めいた架空の暮らしのなかに、こうしてひとたび生身の人間が置かれるだけでなんだか急にディスプレイは現実めいて、区切られたいくつもの部屋を覗くたびに、ほんとうに「ひとんち」を垣間見るようでふしぎな心地になる。電車の窓から見るマンションや団地の箱のなかの無数の暮らしをひとつずつ眺めるような。
家具を買う予定はなかったが、ふと小ぶりのデスクが目についた。幅60センチ、3900円。これなら寝室にも置けるかもしれない。夫は職場に個人の研究室があるが、わたしにはわたしの机というものがない。けれど書斎、などと大袈裟めいたものがあったとして、自分がそこで原稿を書かないことは明らかで、というのも受験勉強すら自分の勉強机ではまったく手につかず、ある程度騒がしく、つねに家族の目があるダイニングの方がよっぽど捗るのだった。それで自分の机がほしいとは思ったことはなかったのだけれど、でもこのささやかな机はなんだかいいかもしれない。1LDKのわが家では土日など夫と時間を区切って交代で作業したり、zoomの打ち合わせをする場所がなくて困っていたこともあり、きっとそういうときにちょうどいい。ただ、実際の寸法を測ってこなかったので、想像するしかない。寝室の、手前奥の角。小窓があって、左手には本棚、右にはクローゼットの扉。床から窓まではどのくらいの高さだったか、窓の幅は、出っ張り具合は。まったく思い出せない。毎日暮らす家なのに、その細部はこんなにも曖昧なのだ。いやこれはもう賭けだね、でも多分収まるんじゃない、いけるでしょと勢いで買うことにした。
こうしてその場で思いついてあれこれ悩むもんだから、帰る頃にはへとへとになっている。みなが生活のものを、大型家具から小物に至るまでのあらゆる品を吟味している。IKEAには、安価でおしゃれなものがたくさんある。要らないと思っていたものも、気づけば大きなカートに放り込まれている。子どもは100cmもあるクジラのぬいぐるみを欲しがった。夫は、謎のキーホルダーをどうしても買うと言って聞かない。新しい生活への希望とか、ちょっとした彩りだとか、何かの期待や欲望をもってみんな、きっと出かけに来る。本当に人生に絶望していたら、もしかするとここには来られないのではないか。そうふと思ってしまった。ひんやりとして、明るい倉庫。そこから選び出すあれこれ。山のように積まれた色とりどりのジップ袋を、みなひょいひょい手にとってゆく。IKEAのすぐ隣には新興のマンション群があり、ここに住んでてIKEAのものが家にひとつもない人っているのかね、と夫につい訊ねてしまう。みな同じ大きな青い袋に軽いものも重いのも持ち帰っていそいそ部屋に並べて、思ったよりも重く使い勝手の悪いカップ。買ってもなかなか減らないジップ袋。それぞれの、似たようで似ていない暮らし。いや違うようでほとんど個性のない暮らし、などと勝手に思い浮かべている。
そういえば以前IKEAで買った布巾が、Instagramで素敵なランチョンマットとして使われているのを見てびっくりした。あれって布巾じゃなかったのか。うちの、すでにめっちゃ汚いんだけど。拍子抜けするような、でもなんだかそのことに少しだけほっとした。一番の目的だった布団カバーは、サイズはばっちりだが柄がしっくりこず、そもそもわたしや子どもの布団カバーもばらばらのタイミングで買い替えてきたもので、結果全部色や柄が違ってまったく統一感がない。おしゃれでもなんでもない、ちぐはぐな暮らし。懸念の机は寝室の隅にぴったり収まって、けれどわたしはまだそこに一度も腰かけていない。
あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう/岡野大嗣
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。