2023年10月13日 夕方公開終了

マリヲ(まりを)

 毎年、夏、夏はこんなに暑かったかと思う。暑いてほんまに何回言うねんと思う。こんなに暑いともう無理やと毎年言っていて、昨日エレベーターで一緒になった配達員と話して、今年の夏は異常ですわ、七月やのにこんなに暑いのは去年よりもですと、それにこんなに暑いと、日本とか世界がどうかなっちゃうんじゃないかと思ってしまいますよね、と話して、二人で頷いたくらいだった。

 昨日は本当に暑くて、自転車に乗ろうとしたら少しふらついて、それで思い出したのは京都だった。京都でこんな感じの暑い日に、ふらついて自分はモナムーに電話で、お久しぶりです元気してますか、さっそくですけど僕どうしても大阪に帰らないといけなくて終電なくて、たぶん今日中に帰らないと殺されるというかちょっと殴られるくらいのことは絶対にあるから、それを解消するのを手伝って欲しい、助けて欲しい、ワゴンで今からよければ迎えに来てくれへんやろうかお願い、おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい、あとちょっとだけで良いからお金も貸してと深夜に三年ぶりくらいに電話して、モナムーは「もう二度と連絡寄越さへんて約束すんねやったら、今から行くわ何処おんの」と、自分は「丸太町の駅の上」と言って、その時はモナムーの言っている、二度と連絡せえへんねやったら、という言葉の意味をあんまりわかっていなかった。

 人間関係が一旦破綻するときはおもに自分に責任があると思っていて、それは自分が今日正しいと思っていることが、次の日になると真逆を思っていることがよくあるからだと思う。よく考えたら違った、ということもあるけれど、人はこんなことを思ったり、考えたりしているよ、という情報が何らかの方法で自分に入ってきた場合、その、自分のなかに入った順で言うと新しい考えの方に依って、なるほどこういう考えもある、では、仮のその人には自分の考えは合わないだろう、合わないんじゃないかという思いがたちまち現れて、仮のその人も納得するような考えや方法が何か他にないやろうかと考えてしまう。そんな考えや方法は、すぐに見つかるものでもないと思うので、やっぱり言っていることがコロコロ変わるようなことになってしまう、相手や、場の空気にも大きく左右される、だからそんな自分にモナムーは心底呆れ果てていたのやと思う。なにか今、人間の根本的な合わなさや、解消しないといけない人間性がある、というふうに格好をつけて考えてしまったけれど、単純にお金を返さなかったり、ドラッグのせいにしてギャーギャー与太を言ったりしていたのやモナムーにも、モナムーは、京都に迎えに来てくれるこのときまで、まだ自分と会って話したり、遊んだり、たまにしてくれていた。

 その日自分は京都で、芸大出身で、おじいだけどワルのようなパンさんという人と、初めて会っていた。君がモトキくんの友達かいな、ほなこれがそれで、お金は? と言ってもう用事は済んだ、「きみ名前は、いやほんまの名前、誕生日は、きみほな良い感じの方角やね、シヴァ神の生まれ変わりとも言えるね、それを意識したことある? そうやろなあ、ないやろなあ、誕生の、石とか数とか、意識して生きたら全然ちゃうよ、誰でも誘うわけちゃうけど、きみ、まあシヴァ神系やから家来たら、家来る? ちょっと汚いけど」と言って住宅地の、何々下ル、とか何々上ル、とかいう地名を越えて、細い路地の中のパンさんの家へ入れてもらった、二階の屋根が抜けていた。「では、まず、アルファ波です」とパンさんはプレイステーションにCDを入れてテレビで再生した。そこからなにやら難しいような、身体の芯以外が納得するような、そんな話を一生懸命にお互いして、終電が無くなった。

 暑いと水を飲んだり、動脈に冷たいものを当てたり、風に当たったりするけど、その頃はその全部はドラッグで解消すると思っていた、パンさんも自分も無闇矢鱈だったのは暑いせいだったと思う。モトキくんに「明日帰る」と電話すると、いんやダメだ、それはそもそも俺のものだから、なんとかして今日中に帰ってきなさいと聞かなかった。身体からもし切れたらと駄々をこねている感じもした。ぶるぶる、武者震いとは違う震えがした、「パンさん車持ってないの、持ってないすよね、パンさんこんなとき、アルファ波全然効かんね」とパンさんに言うと、「ある一定の回数越えたらね」と細い声で言った。自分は「もうどもならんので、ちょっと僕はとりあえず出ますわ」と言ってパンさんの家を飛び出して、とにかくネオンの明るい方角へと思ったけれどパンさんも一緒に付いてきてくれた。ヒッチハイクしてみよかと親指を立てて、十台も一瞬で通りすぎたところで、自分たちの姿を見てみるとパンさんは延びたタンクトップに白髪混じりのドレッドで、自分は上下のサイズが極端に互い違いになった汚い短パンとTシャツで、こらあかんわそらそうやと、ほなどないする、でもちょっと暑いね暑すぎるね脳みそが溶ける感じやね、パンさんと自分はアイスクリームを買って食べた。悲痛な顔をしながらアイスクリームを食べて、手当たり次第に携帯の電話番号に電話をかけて、やっと繋がって来てくれたのがモナムーだった。モナムーが到着するまでパンさんに、「パンさん付き合うてもうてすみません、パンさん過去こんなこと、ありますか、ありましたか」と聞くと、パンさんは「もうそらいろいろあった、けど俺はそれは、人類が前に進むための大きな一歩の、ほんの小さな一部分やと思ってる」と言っていた。

 モナムーは着いて、自分は助手席に乗り込んだ。モナムーは切れた笑顔で手を振るパンさんに張り付いた笑顔で答えながら、「まずおまえ、あれ誰やねん」と言い、自分は「パンさん。初めて会ったひと」と言い、モナムーは「おまえ…」とその後の言葉を飲み込んだように思った。モナムーは三年前より、一回り身体が大きくなっているように錯覚した、それか自分が萎縮したか自分は「なんか、すみません」と言い、モナムーは「なんかてなんや、なんかてなんやねんないっつもほんまに」と言った。モナムーの乗っているワゴンではいつもヒップホップの、ラップの大きいミックスCDがかかっていて、それは自分は嫌だった。それで自分はボアダムスとか、端正な感じのテクノのミックスCDに入れ換えて聴いたりして、それをモナムーはたぶん嫌だった。それが嫌だったことに気付いたのは、このずっと後だった。モナムーはいつもよりもどっしりした声になって、「これで最後、これでほんまにもう連絡せんといて。俺も連絡すんのやめるわ。知らんけどおまえ殴られたりすんのしゃあないと思う。なにがあったか聞かへんややこしなるから言わんといて。ややこしこと巻き込まれたないから連絡すんな言うてんちゃうで、俺もやりたいことあんねん。京都まで来てな、ほんでおまえもおまえとおっておもろいときもあったけどな、いまおまえそんなんやんか、ぼろ雑巾みたいなんと一緒におるしな、ぼろ雑巾が悪いんとちゃうで、でもぼろ雑巾もそないしてあっこまでああして生きてんやろ、それがやりたいことやろ、おまえもやりたいことあったんちゃうんか、あるんちゃうん。人な、俺含めてな、ややこしことに友達巻き込むんてほんまに下品や思うで、むちゃくちゃ腹立つけどな、おまえな、大丈夫か、大丈夫かよ」と言った。窓を開けたり閉めたり、オーディオの画面を見たり俯いたりして自分はなにも言えなかった。

 よー3358、よー3358、名残惜しい気持ちがあったから、モナムーのナンバーをずっと見ていて覚えてしまった。空いた四つ橋線をモナムーは素早く発進して行った、繰り返しているうち、なにか少しだけ気分が良くなった、よー3358、ドーミーインを右にして歩いて、よー3358、誰もこの時間歩いてへんねや、意外ちゅうか、人少ななりましたね、よー3358、小さい郵便局の向かいのビルの、ここだけちょっと小便の臭いするなあ、階段を四階まで上がって、リズムを取って、よー3358、サンサン、ゴー、ハチ! と扉を開けると、ドラムセットに絡まるようになってモトキくんは寝てた。四階はスタジオになっていて、廊下には汚いベンチと動いていない自動販売機があった。スタジオの扉と向かい合わせで鉄製の扉があって、モトキくんの友人はコンパネ板にマジックインキでなにかを一生懸命に書いてた、うっすらブルーハーツが流れていた。自分は「ちょっと遅なってしまいましたけど、今日なんとか、なんとか帰ってこれました」と友人に言うと、「おえん」と言って遠くでモトキくんが起きた。友人はなにも言わなかった。

「ねえちょっと暗い。暗い! もっとポップに帰って来れないの?」

「いやちょっと遅なったし申し訳ないなというか、そんな感じも出した方がいいかなと思って」

「いらない! 簡単な湿り気みたいなん、いらない! とにかく全然面白くない」

 ない、のところはなんとなく、駄々をこねるというか、意中の異性同士が頬を膨らませて言う感じの、イントネーションにモトキくんはなった。

「無理していま口角上げてますけどね、さっきというかいま、僕絶縁されてきたんですよ。今日帰ってくるというのと引き換えにですよ? そんな無茶なというかまあ、もう遅いですけど、優し優し友達やった、せめてこのでっかい代償分くらい落ち込まさして欲しですわ」

「知らんね。絶縁なんか出来んやろ、そいつも好きもんやろ」

「好きもん言うても」

「とにかく! 面白くない。ちょっと、面白くないよその言い方、帰ってきかた。うーんちょっと、もうちょっと面白く帰って来て欲しいみたいに思ってます。じゃあはい! やり直し!」

「やり直しってなんですか、なんのやり直しですか」

「大丈夫その下の、三階の踊り場からでいいから。この暗い雰囲気はあなたが作ったので、あなたが解消してください。はい、やり直し!」

 自分はのろのろした動作になって、モトキくんの友人にマジックインキを借りて、携帯電話のカメラで顔を映しながら眉毛を太くした、ほうれい線を濃く書いて、渋い声であ、あ、とリハーサルをして、帰ってきたというような意味の言葉をその声でふざけて言った。

「は、ゴルゴやん。でもタメ口だめ。マイナス。ここにスプレーあるよ。面白いけどまだ暗い」とモトキくんは、ノーと言えないような、ノーと言ったらなにか恐ろしいことが起こるような雰囲気を湛えていた、ような気がした。それからキャプテンなんとかとか、腕にゆうちょ銀行とタトゥーを入れたやつ、ウルトラマン、単純なピエロ、夫婦漫才の旦那役などの扮装をいろいろして、皮膚に張り付いたスプレーペンキは興奮が覚めると乾いてパリパリになった。モトキくんの友人がやっと口を開いて小さい低い声で「酒、買いに行こう。眠たい」と言った。自分たちは服を着て、階段を降りてコンビニに歩いた。まだ暗かった。まだ夜だったと思って自分は安心した。

 

 なんばパークスがいつ出来たのかはっきりとは知らないけれど、今ほど人が多くなかったとき、ときどき昼間に中を歩いて通ることがあった。鬼太郎の壁画や人工的な植え込みとかを見て、やっぱりこんなに綺麗やったら緊張するなあなど言いながら、歩いて、ときどき座ってビールを呑んで、ドラッグから次のドラッグに移動するような、凪みたいな時間、まだ閉じきっていないような彼女と歩いたりした。その日歩いていると、偶然モナムーと会った。またもう一度、三年経っていた。意外にモナムーは笑顔だった。その日モナムーが結婚したことを、型枠の仕事で独立したことを聞いた。モナムーは「元気そうやん、おまえも結婚したらええのに、なんちゅうの、こすく生きるっちゅうの、それ俺ちょっと無くなったで、なんとなく、ええ感じやで」と自分に言ったあと、ついでのように「なんか持ってない?」と聞いた。自分はふざけて「ビール、呑む? こんなに太陽出てることやし」と言い、モナムーは笑って「また」と言って路地を逸れて駐車場の方角に歩いて行った。

 

 それからまた三年が経って、パンさんはいよいよ腰が立たないようになりそうだった。なにかを、例えばドレッドとかでも、止めたらたぶんましになるだろうけど、パンさんはよもぎ蒸しとか、熱い石を乗せる、みたいなことに凝っていた。一度よもぎ蒸しに行った帰りに、パンさんはなにやら緑色の瓶に入った、甘いドリンクをしきりに呑んでいた。焼酎もそのドリンクで割って呑んだりしていて、自分も少しもらったけど不味かった。パンさんからはよもぎの臭いは全然せず、藁とかおが屑みたいな臭いがした。パンさんには若い彼女が出来た。若い彼女とパンさんは一緒にいないときは、電話をずっと通話中にして繋げて暮らしていた、若い彼女の公安に追われているという妄想が酷くならないためだった。会ったことはないけれど、澄んだ声とくぐもった声が同時に鳴るような不思議な声をしていて、パンさんが本を音読したり、昨日見た夢をゆっくり話したりしているときには、その不思議な声の相槌がちょうど読点みたいになって時間を進める感じがした。パンさんがよく言う、たぶん俺らは世界でふたりきりになったらうまくいくと思う、の言葉を嫌な感じで納得してしまった。

 これ行こ思てんねん、とパンさんは端が小さく長方形に切り取られた真緑のチラシを取り出した、どれ? と自分と電話口の向こうの声と、同じタイミングで聞いた。よもぎ蒸しのおばちゃんからもらったと言っていた、不味い緑のドリンクの販売会だった。ドリンクから派生した化粧品とか錠剤とか、ちょっと色の違う瓶とか、そのどれもに値段が書いていなかった。自分はこれは絶対にあかんやつやという気持ちを抑えながら、

「パンさんこれ、ほんまに行くの」

 と聞いた。パンさんは

「ちょっとちゃうねんな、最近、なんでもちょっと見え方がちゃいなってきたというか。はっきりなにが違うって言葉ではあんまり言えへんねけど、一個やと思てた宇宙がいまはもしかしたら一個とちゃうんちゃうやろか、と思うような。俺らは一個の小宇宙やんかそれは、せやけどそれは浮遊してるやんか、俺らに浮遊はでもコントロールでけへんやんか。俺らがもし共通の一個の宇宙に接続してへんかった場合、それが何個もあった場合やで、なんか全部おかしなってまうんちゃうやろか思て怖なってきてん。各々のルールで生きすぎゆうかおかしいゆうか、だからいまな、これ呑んでちょっとも腰ようならんねけどな、自分のこれおかしいみたいなそれも、俺の宇宙のことだけやろ、せやからここ行ってな、共通の宇宙やとしたらそん中で、そん中のなんかが絶対ちゃう訳やろ、なんかがちゃう訳やんかどっちかが。ええ宇宙かもわからん、ええ宇宙やのにせやから、俺にそのスイッチないだけかもわからん思て。思い付いたんさっきのことで、ほんでこれもやってんの今日やから。ちょうどやんか。だから行こ思て」

 パンさんは携帯電話をポケットに入れて、普段より少し綺麗なTシャツを着て、さっと家を出た。電話をポケットに入れるとき、電話からなにか声が聞こえた、自分も慌ててパンさんに付いて家を出た。

 パンさんは電車賃がなかったから、なかったのか、大阪駅となんば駅ではひと駅まえの駅から乗ったと言ってキセルした。なんば駅から地下道を通って少し迷って、一度屋外に出てからもう一度入ったビルは綺麗で、冷たい感じがした、歩いている間じゅう、パンさんの履いているサンダルと皮膚の擦れる高い音がしていて、地下道とかビルのエントランスで響いて目立つ気持ちになった。エレベーターは十三階で停まって開いた。

 ひととひとが話しているとき、その話している内容が聞こえてきていないのに、ああこの二人は心を通じ合わせて話をしていないな、と伝わってくるのはなんでやろうと思う。口をすぼめて目を大きく開けている顔とか、目を閉じて激しく首を上下に振る動作、うるさい感じでにじりよせる肩、相手の膝にそっと置く手のひら、右手を右胸に直角に当てたり、こちらからみると左右対称になって口に手を当ててのけぞる笑顔、そういったものが一瞬でわっと目の前に現れて、そしてその大半の人たちはフォーマルな、ひどくてもカジュアルな感じのスーツ様だった。パンさんはサンダルの音を響かせながら、よもぎ蒸しのおばちゃんを探してずんずん進んでいった。そのおばちゃんを自分は知らない。だからパンさんにずっと付いていった、なんでこんなところに来ているのか全然分からなくなった。なんでこんなに弱気になっているのか、なんでこんなに自分の意思がなくなっているのか、もともとそんなものなかったのか、なんでこんな風になったのか、自分たち以外はなんでこんなにキラキラした感じなのか、錯覚か、あ、ドリンクほんまに効くんやったらばあちゃんに持って帰ろかな、パンさんの分それやったらちょっと手伝えるわ、でもほんまにいらん、やっぱりほんまにいらん、ほんまにいらんねやったらいよいよなんでこんなとこおんの、いまここドリンクなんにも関係ない感じやんか、キラキラゆうかギラギラで、別の宇宙やったら別の宇宙で、別な意味があるから別なんちゃうの、「パンさん帰ろう」と自分は言った。「ままままま」とパンさんは腰を叩いて肩をいからして、「おばちゃん来たで」と一人の女性に言った。オレンジとピンクの中間色のスーツで白髪が同じような色に染まった短髪でおばちゃんは明らかにビクッとした、ビクッとした後うんと口角を上げて、「まあカドさんありがとう、ほんまに来てくれるん思えへんかったわちょうどええとこ。うん、ちょうどええとこ来てくれはったわ、今ね、ちょっと会わせたいひとおるのよ、だからちょっと待っててね、まだ時間ある?」パンさんは「全然大丈夫ですよ、いつもお世話なってるし、やっぱり石とか、よもぎの効果あると思いますわ、彼女とも物凄いうまくいってますもん」と言って直立不動になった。肩のいからせは普段見たことないくらい幅が大きくなって、パンさんをよく見ると誰とも目を合わせようとしていなかった。おばちゃんは小走りで戻ってきて「ちょっとカドさんごめんね、会わせたい人てエリアマネジャなんやけどね、いつもええ話してくれはんのよ、でもねやっぱりちょっと忙しいみたいでいままた違う人と話してはるわ。カドさん核酸まだある? 核酸けっこう効くでしょう。毎日続けたらやっぱり全然違うでしょう。腰も完治すると私信じてますよ、日々の心がけと核酸、やっぱりこれですよ、もう無いんやったらね、買えるから、ここで、どうする? 買って帰る?」今度は自分がビクッとした。お金どうすんねやろ、お金やっぱりまだパンさんあったんか、パンさんは意外に飄々とした感じになって、「いいすね、買って帰ろうかな」と言っておばちゃんに付いて広い部屋の右角の、パーテーションの裏に行った、「月何本コースにする?」とおばちゃんは聞き、パンさんは「おばちゃんと一緒でいいよ」と言った。おばちゃんは「ほな月三本からにしよか」と長方形の厚紙になにかを書いた、「カドさんこれ月毎の引き落としなんやけど、銀行口座ある?」「ないねん」「あほなことゆうて」「いや口座俺ないねて」「りそな? UFJ?」「ないて」「カドさん冗談きついわ、ゆうちょ銀行でもええのよ」「ない」「わかった信用問題やね、わかったほなどうしよか、ほないまお金払ってもらって、最初の月だけ私の口座から引き落としてもらうのでもええ? いまお金ある?」「ない」「月々ね、これ申し込んでもらったら私楽やねんけどね」「ないねんごめんね」「カドさんずっと来てくれてはるしよもぎ蒸し。ほな毎月ね、来てもらったときに私からお渡しすることにしょうか」急にパンさんは低い優しい声になって「おばちゃんね、おばちゃんてこの宇宙以外に、宇宙てあると思う?」とおばちゃんに聞いた。表情もなにか糸が切れたみたいだった。「は? 宇宙? 宇宙てあの宇宙? 嫌やわ、変な話して。カドさんの話、私いっつもわかれへんのよ」「いっつもてこの話今日初めてするで」「ごめんね、今の子の話、ちょっと私わかれへんのよ。次いつ来てくれはんのやった?あ、辻さん!」と言っておばちゃんはまた小走りでパーテーションから出て行きそうになった、ちょっと待ってえなとパンさんは言いたかったのやろうけど、「ちょ、ま、」と言う感じになって、おばちゃんの二の腕をそっと掴んでた。自分はちょっと、なんというか、パンさんを応援するような気持ちになっていた、パンさんはそこで、「うう」と言って腰をこごめて上目使いになって、自分の方を少しだけ見た、おばちゃんは口をすぼめて、パンさんに掴まれていた二の腕の方だけを見て、「大丈夫? カドさん、大丈夫?」と何度も言った。

 パンさんはエレベーターの中で何回も携帯電話を落とした。もう一度地下に戻って、今度は地上に出ることにした、地上に出るとパンさんは身体が振れて当たって、停めてある自転車を何回も倒した。倒して戻して、戻した方向にまた自転車は違う自転車を巻き込んで倒れた、そのついでという振るまいで、植え込みの雑草も千切って捨てていた。川行こうパンさん、川行って、川行ってから、と二人で言いながら歩いていると、睨み付けるような顔で白いTシャツが自分たちの方を見ていた、モナムーだった。白いTシャツが、川の、水面の淡い格子柄を反射して光るみたいだった、モナムーは表情はそのままで、久しぶりやんか、と口が動いたような気がしたけど気のせいだった。「ちょっと、写真、撮っていい?」モナムーは言って、自分はなんでと思いながら腕を組んで、それを胸の上の方に少し上げるようなポーズをした。いや違うと、もう一度と今度は両手を顔の横へ持ってきて、指をそれぞれ少しだけ曲げたポーズを取った。モナムーは携帯電話で写真を撮って画面を見て、「六年、や、九年」としかめ面になって言った。自分はポーズを訂正したくなった、誰かがもし見たらという気持ちがあった、だからそんなポーズをしていることに、気がついたからだった。モナムーは自分にその画面を見せてくれた、「違う」と自分は思った。よくその写真を見るとしゃがんだパンさんがモナムーと同じくらい、しかめた顔をしているのが写り込んでいた。自分はモナムーに次に会ったとき、こう言おうと決めていた言葉がたしかあったはずだった。それを思い出している間に、モナムーはパンさんと自分の間をゆっくり歩いていなくなった。

 

 パンさんがしかめ面でしゃがんでいた湊町リバープレイスはこの間、ビールフェスタの会場になっていた。思い出すということはものすごく自分勝手な行為だと思うけれど、思い出すときは嬉しく思い出したいと思う。それにパンさんがしかめ面だったのは、ただ単に腰が痛かっただけじゃないやろうか。小さいいろいろな国の旗がせわしく震えているのを、橋の上から横目で見てそう思った。(了)

 

マリヲ(まりを)

1985年、大阪府生まれ。本名・細谷淳。ラッパー。 ●著作 『世の人』(百万年書房) https://millionyearsbk.stores.jp/items/63ae7535c9883d7772e2afbe ●Discography Fiftywater / F.W.EP (タラウマラ/2020) SUNGA + WATER / RA・SI・SA (タラウマラ/2021) 中田粥 + Water a.k.a マリヲ / シャインのこと (中田粥+タラウマラ/2022) Hankyovain feat. Water a.k.a マリヲ / 他人の事情 (Treasurebox / 2022)