2019年08月24日 夕方公開終了
トビーさんをシェアハウスに招待してカレーをご馳走する。
Air Spiceという調合されたスパイスの定期便を取っていたのだけど、一回で四人ぶんも出来てしまうため、なかなか作れずにいた。今日は休みで時間が取れたので、カレー好きだと公言していたトビーさんに連絡をしてみた。すぐに「食べたい!」と返事が返ってきて、一時間後くらいに家に来ることになった。カレーが完成した頃に同居人のユカちゃんも帰宅し、三人で食べた。
ふたりとも美味しいと言って喜んでくれた。
ユカちゃんは明日仕事が早いということでそそくさと自分の部屋に戻ってしまう。
明日は月曜日だから、私たちも解散しようということになり、トビーさんを外まで送った。
いつもと同じように階段を降りたところで少し立ち話をする。話が一段落して、解散という雰囲気になりそうなところだが、めずらしくトビーさんは帰らなかった。なんだかそわそわとした気持ちになった。トビーさんが「話したいことがある」と言うと、自然と身体が身構えるのを感じた。
以前、ふたりで飲んでいる時に、カウンターで隣になった酔っ払いにしつこく絡まれた。かなり出来上がった様子の男性が「おまえら付き合ってるんだろ」と言いながら、身を寄せてくる。入店してものの数分で捕まってしまい、気が重くなったが、トビーさんが酔っ払いに何と答えるのか興味が湧いた。
ふたりで出かけるのはこれで四回目だし、もしかしたら彼にそういう気があるのでは、と思わないわけでもなかった。
「いや、そういうんじゃないので。友達です」
表情ひとつ変えずに、淡々とトビーさんは答えた。
どこかがっかりしている自分を確認すると、自分だけがそんな可能性を感じていたことを恥ずかしく思った。
トビーさんは自分の言葉でゆっくりと喋った。
初めて見るトビーさんの真面目な顔に、私は戸惑った。
そして、トビーさん自身もこの状況に戸惑っているように見えた。
当たり前だが、彼の言葉は、私に恋人がいないという前提で伝えてくれたものだった。
私に向けられた言葉は、すごくまっすぐだった。
だから、そのぶん、痛かった。
自分の周りの景色だけが、すごい速さで流れていくように見える。
いろいろな感情が蠢き出し、立っているのがやっとだった。
もう逃げることはできない。
トビーさんに打ち明けなくてはいけない時がきてしまった。
「実は、私には恋人がいます」
やっとの思いで声を搾り出す。胸が針で刺されたみたいに痛かった。
「恋人は脳梗塞で倒れて、後遺症が残ってしまいました」
隠していたつもりはないが、単に言うタイミングがなかった、と念を押すように付け加えた。私は、トビーさんの方を見ることができなかった。
知り合って間もない私たちはお互いのことをほとんど知らなかった。ユウキさんのことを知らないトビーさんの前では、唯一、開放的な自分でいることができた。だが、時々トビーさんといると、猛烈に胸が苦しくなることがあった。何もなかったような顔をして無遠慮に笑う自分に、もうひとりの自分が軽蔑の視線を送っている。ユウキさんは苦しんでいるのに、自分だけ楽しい思いをして良いのだろうか。そして、私はトビーさんを騙していることになるのだろうか。
彼が個人的なことを話してくれるようになると、私も洗いざらい話してしまいたい、という衝動に駆られた。でも、結局、それができなかったのは、この付かず離れずの距離感が自分にとって一番楽だったからだ。
トビーさんは「何も知らずにそんな言いづらい話をさせてしまってすみません」と謝った。そして、「僕で気晴らしになるのなら、いつでも遊びに誘ってください」と言う。
目の前にいるトビーさんがどんどん遠ざかっていくように感じた。自分の発言を撤回したいと思ったが、手遅れだった。もうトビーさんと前のように遊ぶことはできないだろうと思うと、一気に寂しくなった。一緒に行った場所や、そこで話したことを思い出す。私は、トビーさんのくだらない話にいつも救われていたのだなあと思った。
例えば、私が新たに恋愛をするということはユウキさんを見捨てることを意味するだろう。
倫理的に考えて、そんなひどい選択が許されるだろうか……。
トビーさんを見送った後、急に変な汗が出てきた。心臓の音がばくばくと鳴り響き、止まらない。もうトビーさんに二度と会えないような気がした。このまま走って追いかけたい衝動に駆られたが、足がすくんで動けない。
呆然と暗闇を見ていると、突然着信音が鳴った。通話ボタンを押すと、間瀬の声だった。
「三茶にいるから今から飲もうよ」
酔っているのかご機嫌な様子だ。いつもの調子に身体の力が抜けた。(つづく:8/23更新、私の証明77-「一二月一一日」)