2025年12月04日 夕方公開終了
文=堀静香
先日、久しぶりに哲学対話に参加した。この連載に度々登場するYCAM(山口情報芸術センター〉主催の「せんせいのせんせい」(捩子ぴじん+YCAM新作パフォーマンス)というイベントのキックオフ的な会として、いまをときめく哲学者・永井玲衣さんが進行役とのことで夫婦で参加した。永井さんとわたしたちは同じ大学の哲学科出身でもある。当時からお互い哲学対話に触れてはいたものの、彼女がファシリテーションする対話に出るのは初めてで、楽しみにしていた。
「あるひとつの問い(テーマ)について、輪になってみんなで考える」と聞けばとてもシンプルだけれど、その場を開くひと(ファシリ)によって、対話がどんなふうに進んでいくのか、雰囲気、テンポはまったく異なる。今回永井さんの進行でとてもいいなと思ったのは、問い出しのパートにじっくり時間をかけていたこと。この「問い出し」の時間が一番好きだ。逆に言えば、「問い出し」以外の時間の哲学対話がわたしはけっこう苦手かもしれない。冒頭に「楽しみにしていた」と書いたのは永井さんのファシリだからという意味がかなり大きく、そうでなければすすんで街場の哲学カフェに出かけるようなことはほぼない。
両手に収まる大きさの、いい感じにくたびれた鳥のぬいぐるみを手に、ひとりずつ今日呼ばれたい名を、理由とともに話す。自転車で来たから「じてんしゃ」です、くらいの軽い感じで、それぞれがちょっとしたユーモアを交えたり、朗らかに順番が回っていく。わたしはどうも心が絶賛思春期モードになるときがあって、こういう大人同士の朗らかな自己紹介パートというのがほんとうに苦手だ(これまでうっすら感じつつ、このとき確信した)。自分でその場限りの名前をつけるというのがどうにも恥ずかしくてたまらなくて、みんな微笑んだり相槌を打ったりするなか、ひとり仏頂面になってしまう。苦しみながらも「実家の猫の名かしわにします」と言って乗りきった。そうしてゆっくり一周した後、それぞれがいま気になっている、今日この場でみんなで考えたいことを、問いのかたちにして言い合っていく。
いま思えば、わたしにとっては恥ずかしくていたたまれないこの自己紹介の時間があってこそ、「問い出し」はスムーズに、というより沈黙もありながらも穏やかな雰囲気のなか、それぞれのペースで手が挙がり、話され、共有されていった。やはり必要なアイスブレイクの時間だったのだ。永井さんは問いと、その背景になる言葉を正確に聞き取って板書していく。なんだかせっかくだから、自分も話したい、聞いてほしい。気づいたら自ら手を挙げて、ここに来るまでに考えたことを、みんなの前で話し始めている。
今日ここに来る前に、家族で地域のお祭りにふらっと参加したんですけど、小学校の保護者らしきひとたちが話しているのがたまたま耳に入って、その話がけっこう衝撃的で。自分の子どもが同級生から殴られて、しかもそれがどうも初めてとかじゃなくて、堪りかねて親に直接文句を言いに行ったら、鼻で笑われるような態度を取られてほんとに腹が立った、っていう話で。まず小学校でそんな暴力沙汰が起こるんだ、ってのがショックだし、殴った子の親もまた親というか、ひとんちの子を殴っておいて謝りもしないってどうなってんだ、とか。もし自分の子が殴られたらどう対応するだろう、まずきっと殴った子を責めたくなる、でもその親のかかわり方が原因なのだとしたら、その子を責めるんじゃなくて親を責めるべき、でもその親も何らかの理由でいまそんなふうにしか子どもに接することができないのだとしたら、いったい誰を、何を責めていいのかわからない気がしてきて、ちょっと途方に暮れたっていうか。
そんな問いにもならない、さっき見聞きしただけのできごとを上ずった声で話して、なぜか手にしていた鳥のぬいぐるみは初め膝の上でおとなしくしていたはずが、じわじわ手元から胸、口元までせり上がって、変なふうに両手に力が入っている。やっぱりひとの前で話すのは、聞いてもらうのはふしぎで、特異な体験だなと思う。知らないひとが、つかの間自分の話を聴いてくれる。変で、そしてとてもすごいことだ。
話したいひとが問いを出して、なぜその問いが気になるのかをゆっくり話していく。「ホワイトボードがいっぱいになったので、ここまでです」と永井さんが言って、問い出しの時間は終わった。休憩を挟んだ後半、メインの哲学対話の時間は、託児から帰ってきた子どもと後ろのほうで遊びつつ聞かせてもらった。多数決で選ばれた問いは「教師にとっての余裕とは何か」だったが、それと同じだけ「希望とは何か」「なぜ学校には余裕がないのか」「人はどんな時に輝くか」など、選ばれなかったものも興味深い。輪の外で、いつの間にか眠ってしまった子を抱きながらぼんやりと聞く対話がその日のわたしにはちょうどよくて、それほど知らないひととその場で真面目に聴き合うというのは、疲れるし、言ってしまえば居心地が悪い。この居心地の悪さこそ、哲学対話の醍醐味と言えばそうなのだろう。それと引き換えに、知らない誰かからこぼれた、問いになる前のふるえるような「いま」を教えてもらう、そういう時間なのかもしれない。
わかりあうことがゴールの人たちを尻目に百年なんて待てない
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。

