2025年11月27日 夕方公開終了

文=堀静香

先日、勤務校の生徒たちに向けて講演する機会があった。歌人・エッセイストの仕事について話してほしい、という。担当の先生から依頼を受けて、二つ返事で引き受けてしまったけれど、ちょっと、というかけっこう変わった類いの話ではないか。キャリア教育のひとつとして、ある職業人を外から招くとか、卒業生がやってきて受験の話をしてくれる、みたいな機会は実際によくある。でも教員としてその学校で働く「中の人間」が別名義で話をする、というのはおそらく、あんまりない。それはひとえに自分が非常勤講師のかたわら、文筆も生業にしているといういまの在り方を割と隠さずにいるから、ということなのだろう。それがいいことなのかどうなのか、悪いことではないけれど、なんだかふしぎな機会もあるものだ。生徒たちには当日まで黙っておきましょう、と先生方とはちょっとしたサプライズのつもりだったが、いざじゃじゃーんと登場したわたしを見ても、生徒はざわつかなかった(なんで?)。
トークイベントとは違って、講演というのは基本ひとりでずっと話すことになる。そんな機会は初めてで、高校時代から日々どんなことを考え、行動し、いまこの自分に至ったのか、これまでの経歴を初めてふり返ってみるに、もうなんというか「流されて」「気づけば」「思いつきの結果」ここにいる、としか言いようがない。それでは生徒たちの「やる気」を鼓舞する機会にはならないので(一度事前に提出したスライド資料にはきっちりとダメだしをいただいた)、どう「努力して」ここまで来たのか、を示す必要がある、という。

もちろん、悔しくてかなしくて辛くて嗚咽するほど泣いた日だってある。でも、ただ淡々とやってきたとしか、ほんとうには言いようがない。諦めずに努力しつづけた、という自分は、なんだかしっくりこない。書きたくて書いて、書いたものを求めてくれる人がいる、好きを仕事にできている、そう言うこともできるけれど、そういういまの自分をもって「成功した」とは思わない。やりがい、について言えば教員だってわたしには楽しく、うれしく、つまりは文筆業とひとしなみである。諦めずに努力しつづけた、という文言はわたしにとっては、辞めなかった、しぶとく留まりつづけた、という言い方になるだろうし、そういう意味ではその「辞めずにいつづけるしぶとさ」というのが自分をあらわすのにはなんというか、俄然しっくりくる。
それでもこんなふうに講演と銘打ってデカい面で話すわたしというのは、生徒たちの目に「なりたかったものになれた人」というふうに映るのだろう。「先生のように努力して夢を叶えたい」「好きなことを手放さずにいたい」など、生徒たちの感想を読むと、もちろん間違ってはいないけれど、きっとどう話しても微妙にずれて伝わるというか、何者でもない高校生の彼らと、何かしらをもがきつつ志向した末にある(それでいて、ほんとうには何者であるか名指すことのできない)わたしとの間にはどうにもこうにも溝があって、もしも自分が生徒としてあの場にいたら、周りと同じ感想を持ち、書き、そうして束の間のわたしという存在を忘れていくんだろうと思う。

わたしが高校生だった頃、寒くなってくるこの時期にはみんなユニクロのカーディガンを着ていた。指定されたわけではなく、けれど当時ほとんどの高校生がユニクロの、定番の紺や黒やベージュに加え、その年に何色か追加される新色を含む、かなりのカラーバリエーションのなかから自分の好きな色を選んで着る。ピンクだとか水色だとか緑だとか、制服のスカートが地味なグレーだったのもあってか、あえて明るい色を選ぶ人も多く、わたしはたしか濃いオレンジ色のカーディガンを気に入って着ていた(当時の流行りは、セーターではなくあくまでボタン付きのだぼっとしたカーディガンであった)。
お気に入りばかりを着ると、だんだん袖口がほつれてくる。気づけば穴が空いていたり、黒ずんできたり、特段それがみすぼらしいとか思うわけでもなく、みんなめいめい一枚のカーディガンを同じようにひと冬かけて着古していった。

当然、毛玉もたくさんできる。授業中、ほとんど無意識の行動として、自分のカーディガンの袖の毛玉をむしっては、現代文の教科書の上に広げていたら(当時、暇な授業の代表が現代文であった)、毛玉同士がくっついて、なんだか「布」のように見えてくる。面白い、と思って自分の毛玉の布をそのまま栞のように教科書に挟んで取って置き、次第に他のクラスメイトたちの毛玉集めに奔走した。少しずつ違った色の毛玉でできた、透かし編みのような心許ない一枚の、布。……と、なんとなく思い出したから書いたけれど、そのできごとが比喩的にどうであるとか、そんなつまらないことが言いたいのではない。とりわけ仲の良くない人にまでお願いしてカーディガンの毛玉を採集して眺めていた自分という存在がたしかに過去にはいて、それとは別に、目の前にまったく違ういまを生きる、生徒たちがいる。ちょうど自分が高校二年生の頃に生まれた彼らが、いま高校生なんだな、と思うのはちょっと感慨深くもある。

高校生をやっていると、たまにどこか外からやって来た人が何か特別な話をして帰っていく、そういう機会が彼らにはある。キャリアとか、人生とか、進路とか、外部から「とっとと考えて決めなさい」とお尻を叩かれるなど、はなはだ迷惑だろうと同情する。
それとはちょっと違うのか、さほど変わらないのか、とにかくわたしは同じ学校の中にいて、いつづける。そのことが、何かしらいいように、ほんの少しでもいいように働けばいいと、いつも思っている。「わたしはこれからもこの学校にいるので、いつでも話を聞きます、聞かせてくださいね」と講演で伝えようと思っていた肝心なことを、結局言いそびれてしまった。特別でもない、中途半端な、先生なんだかそうじゃないんだか、変な人間としていつづける。いつづけたい。講演の最後には、わたしが好きな一首を彼らの前で朗読した。

 だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし/宇都宮敦

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。