2025年11月06日 夕方公開終了

文=堀静香

連休中の夕方、夫が「今夜キングオブコントだ、見よう!」と言う。お笑い好きな夫と一緒に毎年M-1は観ているが、キングオブコントまではわたしは別にいいかな、と消極的な感じで反応すると、あーそうですか、と言われる。同じ熱量でなくて申し訳ない。第一、毎日テレビの権利は子どもが有しており、頭がおかしくなりそうな謎のYoutubeばかり流れているので長らくテレビそのものを見ていない。
諸々子どもとの調整の末、二組だけコントを見ることができた。夫は面白いらしいが、わたしにはわからない。もちろんつまらなくはないけれど、ものすごく面白いかと訊かれると難しい。芸人、審査員含めその場に女性のひとりもいない場であえて女性(女芸人)を演じているのも滑稽だし、「変人」を演じる芸人にはふつうさが滲み出る。どうもそういう冷めた目で、お笑いを見てしまう。
お笑いを嫌っているわけではない。ちょうど今回は観そびれたがキングオブコントに出ていたというトム・ブラウンのネタはいつもぶっ飛んでいて好きだし、生徒に「似ている」と言われて以来、真空ジェシカもなんとなく応援している(先生の授業を受けていると彼らの漫才を思い出します、あと見た目もガクに似てます、と言われた)。あるいはわたしの妹は長年ジャルジャルのファンなので、誘われてライブに行ったこともある。行けばめちゃくちゃ面白くて、そういうわけでジャルジャルも好きだ。
 
けれど、お笑いを許したわけではない(お笑いもわたしに許されたくはないだろうが)。わたしがどうこう、という以前にだいたい、みんながお笑いというものを好きすぎるのだと思う。それで白ける。お笑い全般、もといお笑い芸人のことを、みんな好きすぎないだろうか。わたしのほうが面白い、ということは万に一つ、ないのだろうか。といって別に貶めるつもりも張り合うつもりも毛頭なく、ただこの熱狂ぶりには到底ついていけない。
お笑い芸人のラジオ、というものをどうも人は聴くという。そんなに面白いんだろうか?というか、人の話をそんなにありがたがって聞くものか? わたしが話そうか? それでいうと、ラジオも苦手だ。人の話をそんなに聞く気が起きない。あと落語もだめだ。ただシンプルに、集中力がもたない(かなり前に渋谷らくごで聴いた瀧川鯉八は例外的にめちゃくちゃ面白かった)。

お笑いの悪口をどんどん挙げていきたい。そもそも、人をフラットな状態から笑わせようとする、してくる、その仕草が解せない。別にあんたに笑わせられたくない。それでも、笑わせようって言うんならやってみろ、とM-1など年に数回観る機会には心中でそう思う。やってみろよ。ほら笑えない。そうしてひとりでにやにやする。そのときのわたしの笑顔は醜いだろう。笑わせますよ、笑わせてみろ、というある種茶番劇の上で、笑ってしまうときはすこしだけ愉快、かもしれない。でもお笑いで笑わされたことなど、すぐに過ぎ去って、同じことでは二度と笑わない。そういうものだ、と言われればそれ以上、文句を垂れるつもりはない。
やっぱり、「笑ってくれ」と言われて笑うのは、素直すぎると思う。そんなふうに笑わされて、悔しくないのだろうか(たぶん、誰も悔しくはないんだろう)。わたしも別に悔しいわけではない。ただ、笑いというのは、もっと偶発的に、あるいは「笑ってはいけない」からこそくつくつと湧くような、そういうものなんじゃないだろうか。

笑ってはいけない、という場面で人がぎょっとするほど笑ったことが二度ある。
ひとつは小6の頃、週に一度通っていた英語の塾で、真面目な先生の言動がツボに入って、なんとか堪えようとしたが堪え切れず、肩をふるわせ、時おり絞められた鶏のように変な声を上げ、先生にシンプルに心配された。笑ったようには見えなかったのかもしれない。当時塾に友人はおらず、いつも黙ってひとりで静かにしていたので、ほぼ話したことがない人間がいきなり憑かれたように笑い出して周囲はさぞかし怖かったろうと思う。塾はその後気まずくなって、辞めた。
二度目は大学生の頃、校内の図書館でバイトをしていたときのこと。ある階の女子トイレで不審者が出た、という情報が回ってきた。前後関係は失念したが、その後たしかわたしを含めた数人が、バイト中にちょうどその不審者にはち合わせたのだったか、上司たちからヒアリングを受ける機会が設けられた。そこで、上司がこれまでの不審者の不審行動を粛々と読み上げる、そういう場面があった。詳細は控えるが、大真面目に不審者の調書はつづくが誰も笑わない(笑ってはいけない)、その滑稽さに耐えかねて、わたしはまたネジが飛んだ。大爆笑、大爆発である。言うまでもなく、わたしがいちばんの不審者であった。
だいたい、わたしの母も似たかたちで、たとえば妹の七五三のご祈祷の最中に肩をふるわせて笑っていたし(厳粛な空気に耐えかねたらしい)、ここは遺伝と言い張って母のせいにしておきたいところだけれど、とにかく笑ってはいけないということが、笑いを作る。そういう実感がある。

だから会ったこともない人の面白いネタも、知らない人のラジオも落語も、やっぱりわたしは興味がない。かといって、普段から笑うようなことが起きるわけではない。むっつりと口をへの字に曲げて、何がおかしい、というしかめっ面ばかりしている。思えば人生のうち、中高生の頃にわたしは笑い尽くしたのだと思う。ほとんど毎日お腹を抱えて笑っていたことを、ほんとうに奇跡のように思い出す。お互いの些細な言い間違えをあげつらっては笑い、お弁当に入っていたこんにゃくが箸からすべって落ちてバウンドしては笑い、しまいには教室のストーブの炎が燃えさかるのを見て、手を叩いて涙を流して笑い合った。あの頃のわたしたちにお笑いを見せたら、笑うんだろうか。

場違いな大笑いって五十六億年後に銀河を生むの/谷川由里子

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。