2025年08月29日 夕方公開終了

文=堀静香

もうここにはない場所、についてよく考える。考える、というか思い出す。
どんなに大きな建物も、取り壊されてしばらく経てばそこに何があったのか、すっかり忘れてしまう。近所の、長く人の暮らしていた古い家が取り壊されて、大掛かりな工事がつづいていた。すっかり視界がひらけて、更地になる前、それがどんな外観だったのか、思い出せないことに気づく。そんなふうに、誰かと歩きながら、「ここって前に何があったっけ」という会話をするたびに、お互い何も思い出せないことがこれまで何度もあった。

昔、おそらく未就学の頃だと思うけれど、近所のファミレスに友だちや友だちのお母さんたちとよく行った、ということを思い出す。はっきりと記憶にあるわけではなく、アルバムのなかにそんな写真があって、写真が補完するあのとき、あのファミレスが異様になつかしい。ロイヤルホストとジョナサンとジョイフルが混ざったようなファミレス。「たまプラーザ 90年代 ファミレス 閉店」などと調べて、それが「ジョイガーデン」という東急電鉄系列のファミレスだったとわかる。店の重い扉。涼しい店内のいろんな食べ物の匂い(わたしはファミレスの匂いが好きだ)。窓際の席。お子様ランチのおまけのブレスレットを身につけて、窓の外の緑を眺めたかもしれないあの日。ジョイガーデンが潰れた後は、ちょっといい焼き肉屋になった。

もうひとつ、どうしてもなつかしくてたまらない店がある。90年代、二子玉川駅にあったひょっこりひょうたん島のレストラン。現在の大規模な再開発が起こる前、二子玉川にはナムコ・ワンダーエッグというテーマパークがあり(併設のいぬたま・ねこたまというふれあい動物園に何度か行った)、それができる前のほんのひととき、くだんのひょっこりひょうたん島のレストランがあった、と記憶する。
調べてみると、「グリル・デ・ガバチョ」という名前で、Youtubeには当時の動画まである。なつかしさにふるえる指で再生すると、ああたしかにこんなふうだった。銀色の飛行船のような外観で、ポップな内装で、そう、注文用紙を丸めて筒のなかに入れたらひゅーんと宙を飛んでいく、そういう面白い仕組みがあった。でも、なんだか思ったほどの感動はない。
動画についていたコメントで「うっすら記憶にあって、ずっと夢かと思ってたけど、ほんとうにあったんだ!」とあって、そうなのだ。この店のことを半分夢だと思っていた、という感覚がたしかに自分にもある。だから実際の動画を見ても、正直ぴんとは来ない。

これまで何度も思い返してなつかしくてたまらなかったはずなのに、その場所はね、ほんとうはこうだったんですよ、と実物を見せられても、案外拍子抜けするんだな。若干白ける気分すらある。わたしは、ほんとうにはそれがほしかったわけではないのかもしれない。一度だけ、家族で行ったはずの不思議なレストラン。すぐに潰れてあたらしいテーマパークができて、それも消え、いまは大きなビルが並んでいる。ほんとうに、あんな場所があったんだろうか。疑いながら、半分夢だと思いながら、そんなあいまいな記憶を誰かに話すわけでもない。
そういうテーマパーク的な場であれば、こうして運よく記録が残っていたりする。同じ時期、同じところにいた人となら、なつかしさを共有できるかもしれない。でも、そうでない場所のほうがずっと多い。「チャウチャウ」という名の中華料理屋。小学校の通学路にあったから、よく背伸びして覗いていた。いつも店内が暗く、ちょっと不気味。通るたびに、「この犬チャウチャウちゃうんちゃう?」と友だちと言い合った。何度か家族で行ったはずだけれど、何を食べたのか、どんな味だったのかまったく覚えていない。

先日、近所に住むおばあさんが亡くなった。足が悪いのに何度もうちのアパートの3階まで上がって、果物やらジュースやらお菓子やら、とにかく子どもによくしてくれた人だった。ご家族から入院していると聞いていたけれど、退院もかなわず、その後おばあさんのお家はあっという間に解体された。更地になって、いつの間にかそこはお隣の家の新しいガレージになっていた。
取り壊しの前に、子どもと一緒に家に上がらせてもらった。もう家具などはほとんどなく、古い家のはずだけれどなかはとてもきれいだった。お孫さん一家やその友人の子など、とにかく近所の子どもたちがはしゃいで押入れに入ったり納戸でかくれんぼをしたり、昔の家ってなんというか隠し扉的なささやかな収納場所がたくさんあって、どうにも楽しいらしい。「けがしないでよー」と呼びかけながら、興奮する子どもたちを見守っていた。

そのときすでに、そこに暮らしていたおばあさんはいなくて、いまは家もない。すべてひと月ふた月そこらのできごとのはずなのに、小ぎれいなガレージを通るたびに不思議な気持ちになる。家にはその家の匂いがあって、つまりは人がいて、暮らしがあって、それがもうないということ。閉店した地元のファミレスも謎の飛行船のレストランも犬の名の中華料理屋も、かつてあったときには人がいて、行き交って、全部過ぎてなくなった。
子どもの頃のなつかしさがいまを支えて、それならばいまのなつかしさはずっと先のわたしをまた涙ぐませるんだろうか。ファミレスの名すら記憶になく、ただ夢のような飛行船、だから近所のおばあさんのことだって、もうないあの家だって、わたしはきっとそのうちに忘れてしまう。なつかしい、というのは薄情なことかもしれない。後から断片だけを拾い上げてはやたらとなつかしがる。そうしてあいまいにしか覚えていないということがこんなにもなつかしさを形づくるんだな、と思う。つくづく身勝手で気ままなことだ。

 永遠に忘れてしまう一日にレモン石鹸泡立てている/東直子

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。