2025年05月22日 夕方公開終了
文=堀静香
来来亭の食事券が当たった。
来来亭、と聞いてピンとくる人はどちらかというと西寄りの住まいかもしれない。来来亭は、チェーンのラーメン屋である。京都発祥で、現在は滋賀に本店があるらしい。鶏ガラ醤油ベースのスープに細麺と、シンプルといえばシンプルだが、背脂が散り葱も多めに乗っていて十分食べ応えがある。特に、さらに背脂の多いこってりラーメンがおいしい。焦がし醤油のチャーハンもかなりいい。子どもは餃子を好んで食べる。
と、山口に来てからすっかり馴染みのある店となった来来亭の、食事券が当たった。それも3000円分である。はじめは謎のショートメール、と無視しそうになったが、店の電話番号も記載されているので、これは本物だ。じわじわよろこびがこみ上げてくる。やっぱりアンケートはちゃんと答えるものだなあ。毎月10名に当たるというのはけっこうな確率と踏んで、前回の来店時に本気のアンケートを書いたのだった。おいしかったメニュー、その理由、かがやいていたスタッフ、かがやきポイント、すぐに改善できて店にとって有益であろうアドバイスも含め、全霊のアンケートをわたしは提出した。それが、報われたのだ。
などと、勝手に興奮していたが、その因果はもちろん不明である。シンプルな抽選かもしれないし。かくにも僥倖を得たわれわれは、四月の昼下がり、満を持して来来亭へと繰り出したのだった。3000円分もあるんだからさ、これはもうビール飲むしかないよね、と夫の肩を強めに掴み、ふだん外出といえば車のところ、一時間に一本の電車にわざわざ乗って、店を目指す。カロリー的にはこの一食が一日分となることを見越して、朝はヨーグルトのみ、夜も今日に限っては食べないつもりだ。
こういうとき万全の姿勢をとるわたしを見て夫は笑うのだが、いつだって本気の人間を笑うなど言語道断だ。子どもには、ラーメン食べた後、近くの海に行こうね、と話してあるので楽しみについてきてくれた。すぐそばに海がある、ということをふだんは忘れているが、行こうと思えば海は近い。
駅から来来亭までの10分ほどの道のりも、探検、と言って子どもは張りきって先頭を歩く。天気がよくて、風が気持ちいい。線路沿いの民家の細道を一列になって歩いて、いまが一年で一番いい気候かもしれない、と大真面目に思う。桜がすっかり新緑にかわる頃、気づけば木香薔薇が一気に咲いて、あちこちの民家の塀から卵のようになだれるさまを見ながらずんずん進む。
午後14時、昼のピーク時を避けて来たつもりだったが、テーブル席が空くのをしばらく待って(来来亭のにぎわい、活気を改めて確認)、夫と瓶ビールで乾杯する。調べ尽くした前情報に吟味を重ね、焼肉ポークと餃子に加え、ダメ押しにから揚げ&揚げ餃子のコンビまで頼む。すでにやりたい放題だ。餃子を食べ終えた子どもはすぐに飽きて、早く海に行こうとせがむ。子連れの昼飲みはまだなかなか難しい。ようやっと混雑も落ち着いて、さっきまでフロアを仕切っていたバイトの女性が奥でまかないを食べ始めている。もっとのんびりしたいところ、こってりラーメンとライスで〆た。なんだかんだ、ビールの後にすかさず大ジョッキのハイボールを飲んだので満足だ。
来来亭から海までは、川沿いをゆけばいいと夫がスマホの地図を見ながら言う。
途中の干潟には小さな舟がいくつも転がって、水のない舟はなんだか味気ない。砂地はじっと眺めると蟹やハゼが動くのがわかる。子どもが掴まえた小さな蟹を託されたが、握る手をゆるめて逃がしてしまった。こういうとき怒るかどうか、子どもの機嫌に左右されるので前のめりに謝る。今日はご機嫌ですんなり許してくれた。
見はるかす先に海はあっても、砂浜まではけっこう遠い。ひとり近道しようと、テトラポッドのほうへよじ登ってみたが、いざ目の前にするとひとつずつの隙間は大きく、かなりジャンプしないと嵌ってしまいそうだった。大ジョッキを飲まなければ、あるいはもっと飲んでいれば、飛んでみたかもしれない。
午後3時の海はおだやかで、遠浅の海がつづいている。少し先に、ぽっかりと小島のように砂地がさらされていて、そこを目指して裸足になってざぶざぶ海に入る。気温が高いので、さほど冷たく感じない。どこまで進んでも浅いままだ。夫も子どもも、砂浜で遊んでいる。茶色の縞模様のクラゲが浮かんでいるのを見つけ、クラゲだよー! と叫ぶものの、聞こえないのか怖いのか、子どもは近づいてこようとしない。ふたりの元に戻ってから、流木が打ち寄せられた浜を住みかのようにして、しばらく遊んだ。
戦時中に起きた長生炭鉱水没事故の潜水調査が行われているのは、ちょうどこのあたりだという。夫が近くを見てくる、と言って離れていった。なあに、と訊く子どもに「昔ね、この海の下でたくさん亡くなった人がいて、その骨をいまも何度も海に潜って探してるんよ」と説明してやった。
帰りの道のりは、夫が子どもを抱っこし、駅まであっという間だった。電車は珍しく白い車体で、降車したホームで子どもが手を振ると、ふぁんふぁん、と景気よく警笛を鳴らしてくれた。二輌だけの列車がゆっくり動きだす。
駅から家までは5分もかからないが、子どもは歩きたがらず、また夫が抱いて、わたしはその横で石を蹴りながら帰った。
スクランブルエッグとぼくらが呼んでいる木香薔薇がなだれるところ
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。