2025年05月15日 夕方公開終了

文=堀静香

夫が二日酔いになった。
付き合って以来、それももう15年近くになるけれど、夫はこれまでおそらく二日酔いになったことがない。そもそも、夫がべろべろに酔っ払うのを見たことがない。学生時代からの付き合いということもあって、そうであれば若い頃の失敗というか、飲みすぎによるはっちゃけた姿というのを晒し合うのも青春、なはずだけれど夫にかんしては、どうもそういう失態を目にしたことがない。まず酒が弱い。すぐに真っ赤になるのでまわりも「大丈夫?」と心配してくれる。かつまた、昔から酒を飲んで気持ち悪くなればその場ですぐ吐いてリセットしようとする。
昔、同席した飲み会でふっとトイレに立ったかと思うと「いま吐いてきた」と言うのでそんなに飲んでましたっけ? と訊くと「いや予防的に吐くんです」と返され、(なんだこいつ)と思った。まだ付き合う前だったので、へーそうなんですね、とうっすら引きつつ、たしかにそうすれば翌日に酒を持ちこすことはない(かといって威張るようなことでもないし、第一食道に負担がかかりそうだ)。
あるいはまた、夫が過度に酔うことがないのは、隣でわたしの数々の醜態を目にしてきたからだろう。それはもう、酒によってありとあらゆる失敗を繰り返してきた。一番ひどかったのは、東京の学校で働いていた頃、同僚たちと行った王子の居酒屋で生ホッピーを調子に乗って飲みつづけ、その場(コの字型のカウンター)でリバースしたことだろうか。深夜の魚民とかであればまあそういうことも茶飯事かもしれないけれど、その店がじっさい「酒場放浪記」で吉田類が訪れた店、という非常によき居酒屋だったので、きっと同僚たちは一瞬で酔いが醒めただろう。張本人はというと吐いたことも、そのときのまわりの状況や様子もよく覚えていない。

「酒飲みはなんにも覚えてないからやだよ」と夫はよくこぼす。ずるいよそんなの。でもほんとうに覚えていないのだから仕方ない。くだんの話で言えば、逃げるようにして店から出てきた後のことは覚えている。同僚が夫に電話して、レンタカーで迎えに来てくれた。車内で夫は一切喋ることなく、自宅前でわたしを降ろすと一発無言であたまを殴って、また無言で帰っていった。まだ結婚する前のことで、平日夜に夫の住む西東京から事件現場の王子へ、そしてわたしの自宅の横浜まで行って帰るのは大変だっただろう。さすがに懲りて、あれ以来ホッピーは一度も飲んでいない(店自慢の濃い「生ホッピー」がわたしには強すぎただけで、おそらく普通のホッピーであれば大丈夫なのだと思う、があえて頼むことはない)。

そんな、酒に飲まれるわたしのようなダメ人間を反面教師として、夫は長く理性の人であった。というかいまもそうなのだけれど、そんな夫が初めて二日酔いになったのだった。
その日夫は職場の飲み会で、帰ってきた時も傍目に変わりはなかったが、「ちょっと酔ったかも」と言って早めに就寝した。強いて言うなら、いつもより声が大きかった。まあそういうことはこれまでもあったといえばあった。
そして翌日、夫は起きてくるはずの時間になってもまだ布団を被っている。呼びかけるとやっと起き上がって、するとすぐにトイレに入った。明らかに吐いている。これは。白い顔で出てくると「なんかありえないくらい気持ち悪い……」と言うので「紛れもなく二日酔いだよ」と教えてやった。うそ……と小さくつぶやくや、またよろよろとトイレに行き、水を飲んでは吐き、とうてい仕事に行けるような状態ではない。子どもの朝食や着替え、わたしの出勤の身支度と平日朝はばたばたするがその横で伸びている夫が不憫だった。なんというか、二日酔いの人間って客観的に見るとけっこう悲惨なんだ、というのを逆の立場になって初めて知る。午前中だけでも休めば? と言うと、「それで午後から行ったら明らかに二日酔いの人じゃん、昨日飲み会だったのに……あと今日クラス写真の撮影もあるし行かなきゃ」と青い顔で言う。それで、わたしの運転でなんとか夫を職場まで送り届けることになったのだった。

二日酔いのいいところは、「それ以上悪化しない」ことだと思う。すべて時間が解決する。朝、死ぬほどしんどくても、昼にはなんとか起き上がれるようになっている。夕方になってシャワーを浴びて、夜には食欲も湧いている。それで問題なく食べることができれば二日酔いは去ったのだ。そう、ただじわじわと回復するのを待てばいい。「いま以上つらくなることはないから、必ずよくなるから」と励まして夫を見送った。よろよろと夫は自分の研究室へ消えていった。

「言うとおりだった」とLINEが来て、ちょっと笑った。そう、これ以上悪くなることはない。いまは辛くとも、必ずよくなる。時間が解決してくれる。二日酔いにおける掟のはずが、こうして並べてみるとあまりに安易な格言のようで胡散臭い。けれどほんとうなのだから仕方ない。夕飯は、元々の献立を変更して、おろし蕎麦にした。目を細めて蕎麦をすすりつつ、「二日酔いの人間にやさしいね」と夫が言う。まあね。よくわかるからね。と返しながら、わたしはその横でぐびぐびビールを飲んだ。

活力の錬金術の代償が二日酔い程度なら儲けもの/三田三郎

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。