マリヲ(まりを)

 昨日ホテルダイヤモンドで出会った、トラベラーと背中に書いたTシャツを着た人は中国から来たと言っていた。もう三週間ほど続けて見ているので、思わず先週声をかけると難民だと言っていた。なぜかと訊いたけど、自分はそのとき携帯電話を持っておらず、お互い片言の英語で要領を得なかった。仕事を探している風だった。ここに住んでる? ユー・アー・ボス? と訊くので違うと自分は言い、来週まで、仕事が出来るところがあるか考えてみる、と言った。

 今日、よくよく話をすると、自分は在留カードが発行されるまで収入がない、だから保険やIDの要らない日払いの仕事をしたいということだった。携帯電話、翻訳アプリがあって心強かった。パク・チャヌクの『別れる決心』みたいに、お互い少しずつずれながら、吹き込んで画面を見せて話した。

「やっぱり日本のほとんどの会社は、ID、保険が必要なところが多いです」

「私は保険は要りません」

「そうですよね、しかし会社が保険、IDを必要としている」

「ああ。やはりそうですか」

「あいりんエリア。ここで、早い朝の時間に手配師という簡単な仕事をする人を探している人がいます。もしかしたらだけど、一度訊いてみてはどうですか」

「一度訊いたことがあります、日本語が出来ないと雇えないと言われました」

 自分は天を一度仰いだ感じになった。

「ただの質問だけれど、あなたはなんで、難民になったのですか?」

「政治的要因」

「具体的には?」

「政治的要因」

「なるほど。僕は、小説家や、文章を書く人だと考えていました」

「ああ、違います、私はオフィスをやっていました。朝ニュースペーパー読んで、それから座る。それ以外のスキルはありません」

「いまはどうやって暮らしていますか」

「ギリギリ。他の人にも訊いたら、日本人の彼女を作れと言われました。でも難しい」

「僕は今日の朝、あいりんの近くに行く予定があるので、手配師に一応訊いておきますね。来週また報告します」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 柔和な顔だった。会社がID、保険を必要としている、という画面を見たときその柔和な顔が少し曇った。あんなに柔和なのに、国に帰ったら逮捕されるらしい。国に帰ったら、と言うとき、緩く握った両手を揃えてかざすように、手首の内側をとんとんと叩き合わせる動作が、彼のその柔和さと全然似合わない感じがした。

 ダイヤモンドへ来てまで部屋で鬱々していてもしょうがないと思った、今日はSさんと会うことになっていた。Sさんとは二週間ごとに会っていて、前に会ってから今回会うまで、なにかを発見したとか、なにかを見てこう思ったとか、どこかへ行ったとかの、それは細かいどうということもないことだけれど、それを自分の中で一回こねて、言葉にして話すことが出来るから楽しい。今日は機会があったら、呑み屋でこの間「しんどいしんどいばっかり言うとったあかん」「しんどいんちゃう、シンドバッドや」とおじいがおじいに、戒めている場面に感動したことを言おうと思っていた。

 冷蔵庫の音だと思っていた、隣の部屋から断続的に鳴っているモーターみたいな低音はおじいの声だった。最初は気持ちいいからと始めた発声みたいのが、いつのまにか癖になってやめられなくなる気持ちはちょっとだけわかる。

 

 中国から来た彼は、自分がビールを買いに行って戻ってくると二人になっていた。もう一人同じような境遇の友達がいると確か言ってた、もう一人は真っ黒のTシャツで少し太っていた。「オーケーおやすみ」「オーケーオーケーおやすみ」と挨拶をしたけど、少しよそよそしく自分には伝わった。たぶん理由は二人になっていたからだと思うけれど、あれ? 自分は片言の英語だけだった方がダイレクトに気持ちが伝わった、と思っていた。言葉の一言一言に引っ付いている情報というか歴史というか分量はものすごく、えげつないものだと思うので、声色、表情、身体に散ってるものが片言英語だとよけいに読めるように思っていた。

 午前一時、Sさんは朝日のマルエフ、自分はサッポロビール園を各二本ずつ買って持ち寄ったから、気持ちも風景も一気に明るい感じになった。ダイヤモンドの壁の出っ張りでビールを開けて、小巻やの卵焼きを買って食べた、雨かと思ったらエアコンの冷却水が落ちて来ていた。

 飛田新地の方には呑み屋が数件あると、この時間でも開いているところがあると聞いていたので歩いて向かった。差し掛かる通りの、角をいちいち覗き込んで「やってないですね」と街灯だけの通りばかりだった。もっと遊ばなあかんと思うんですよ、というようなことを自分は言い、「この間ね、銭湯で会った元気の良い若者がたしか香港から来たとか言ってたかなあ、外国人はあかんて断られたとしゅんとしてました。ナイス・バス! とか言い合ってものすごく元気やったんですけどそれ言うとき全然落ち込んでて、僕は確かなことは言えないけどと、聞いた話やから解らないけどと、アジア人はいけると聞いたことあるよと言ってね、欧米人はちょっとサイズがあれやからと言って、ほんなら彼は明日もう一回訊いてみる、と喜んでました。こういった場合ね、どこからどこまでが自分の責任かなとも思うんですけど、彼はね、その明後日、明日チャレンジしてその次の日から八十八ヶ所に行くと言ってたから大丈夫かなと思って」Sさんは頷いて「その銭湯、僕も一緒に居たよ」と笑っていた。それから看板の名前についてや、飛田会館で開催されてた展示の話、明暗の話からレンブラントの話になってSさんは「レンブラントはもしかしたら、ものを立体で見れていなかったかもしれない」と言った。飛田新地の綺麗な街灯はうねって、でもまっすぐに続いていた、通りの真ん中に立って自分たちは片目を手のひらで隠して見て、その違った方の目をまた隠して、立体で見ることが出来ないというのはどういうことかと検証したりした。わかるようでわからなかった。酔った若い二人組が、おおい、と手を振って近づいてきた。「まだ開いてるとこ、お兄さんらもしかして知ってますか」と言うので、自分たちは詳しくないけどこの辺りは23時か0時には閉まると思うと伝えて、すると話している方の男性はもう片方の男性にたぶん中国語で翻訳したあと、二人で残念そうな顔を見合わせた。Sさんと自分は表情を圧し殺した感じで顔を見合わせた。自分は実は、レンブラントてあんまり知らんのですよとSさんに言い、Sさんはとにかく! 自動販売機さえあれば! とお酒の自動販売機を探して早足になっていたので、とても安心した。

 交差点で、子猫が三匹じゃれあっていた、愛しくなった。一匹がこちらを気にして近づいてこようとし、一匹は寝そべって、もう一匹は植え込みの中から寝そべったもののしっぽを気にしてじゃれていた。Sさんの差し出した手に一匹は頬をすり付けて、ぱっと二匹の方へ戻った。一瞬沸き立つみたいに三匹はくるくると動き回って落ち着き、それからつつくような手の動きだけになった。なんとなく三匹の気持ちが伝わって、愛しいような気持ちになったのやと思う。

 少しまえ、繁華街で、カラスが自身の羽をくちばしで千切って放って、ギャアと鳴いているのを見たことがある。植え込みでガサガサ音がするからなにかと思ってじっと見ていると、雀が枯葉の中へ何回も飛び込んでは出てきていた。高速道路の料金所で百舌鳥みたいな鳥を、二匹のカラスが急降下して襲っているのを見たことがある。これらは鳥にもストレスがあるのやなとか、餌場かなとか、鳥同士も種類が違うと食べるのかもしれないとか、まるでアテレコしてるみたいに自分は勝手に思っていたけれど、本当のところはわからない。カラスを横目で見たのは仕事中で、トラックで、乗っていた自分以外の同僚二人がしていた会話も一緒に思い出した。

「こないだ北朝鮮のミサイルのな、速報流れたんやけどな」

「テレビでか」

「そうやほんであのな、ピピピいうのんだけ耳に残るやろ、あれでやっぱり見てまうやんか」

「見てまうなあ」

「ほんでもミサイル発射されましたて、俺、ふーん、て思てん。でもほんまはえらいこっちゃやんか」

「届けへんやんかこっちまで」

「せや、届いたことないねん。せやからな、別にどっちゅことないなー思て見てるやろ」

「どっちゅことないやん、どっちゅことないからやんか」

「ほんまにどっちゅことない? あれへん? そいで俺な、それってどうなんやろ、て思ててん」

「難しい暗い話好きやな」

「いやちょっと暗いけど、ちょっとそれってどうなんやろとか思えへん?」

「思えへんよ」

「人がな、この人たぶん嘘ついてるやろな、これ嘘やろな、と思ても、ふーんみたいになるやろ」

「俺が? 別になれへんよ、ほんまかもわからんやんか」

 それから同僚二人はコンビニの店員の話、ギターのエフェクターの話に移動していった。ぼんぼんぼんぼん、リズムだけで会話が進んでいるとき、それを聞いているとき、ものすごく気持ちいい。なんというか、なにか大事なものが隠されているような予感がするときもある。

 

 深夜も朝になってきて、Sさんと八福神に行って、ししゃもとポテトフライで呑んだ。隣のサラリーマン風は漫画『酒のほそ道』を読みながら、冷奴、梅クラゲから、野菜炒めとポテトサラダで呑んでいた、自分たちと呑むスピードは一緒で、大瓶二本がなくなる頃にサラリーマン風はその場でコンタクトを外してお会計をしてた。自分は欠伸が止まらなかった。Sさんは仕事が終わってから自転車でここに来てくれてるのに、自分の方が眠いということはよく解らないことだ、と苦し紛れにSさんに言うと、Sさんは笑って頷いていた。Sさんとは、朝、昼、夕方から夜、そして深夜の西成を一緒に歩こうと約束していたのだった、今日は深夜会だった。ふとした緊張の気持ちがあったけれど、少し賑わっている南海電車の高架沿いを見てそれは吹き飛んで、心底嬉しくなった。

 ボーダーのTシャツにカーキのズボン、黒いキャップのお兄が「兄ちゃんら仕事しよう」と言った。しよう、の、よ、を軽く伸ばす感じで、ふらっと付いていきそうな気持ちになった。手配師は他にもたくさんいて、スキンヘッドで綺麗な作業チョッキ、ニッカポッカもピカピカの元気なおじいが「兄ちゃんら仕事やろ、どんな仕事がええの」と言った。自分は「ぼくじゃないんですけどね、おんなじドヤに泊まってるね、中国の人なんですけど、日本語喋られへんでね、でも仕事したいゆうて困ってるんですよ。一回訊きに来たけどあかん言われたて。日本語喋られへんかったらちょっときついですかね」と言い、綺麗なニッカポッカのおじいは「中国人よう働くからな、嬉しいにゃけどな、日本語喋られへんかったらちょっときついな……」と三徳寮の辺りを指差して、「あすこにぎょうさん車泊まってるやろ、もしかしたらそん中にな、日本語出来んでもええちゅう奴おるかもわからんわ、ほやけど兄ちゃんちゃうねやんな、ほやからその子にな、きちんと仕事の恰好して、そうここに玉掛でも吊るしとったら完璧やけどな、それでもっぺん来てみゆうといて。あるかわからんで、あるかわからんけどほでもそんな格好しとったらどないかなるかわからん」と教えてくれた、自分は嬉しくなった。嘘でも駄目でも全然良かった。なにかちょっとした、とっかかり、ひっかかりに向かって動く、動ける時間は絶対に良いものやと思うから、それを知って言える自分にとっても嬉しいことだった。中国から来た彼はいままだ眠ってるやろうけど、ちょっとはよ起きてくれんかなとまで思った。

 それからDVDと、二、三本の腕時計と、湿布を置いてるおじいの店と、任侠、最新、アダルトと表記されたDVDのおじいの店を通りすぎると、道路に背中を向けて指輪をじゃらっとレジャーシートに置いているおじいが居た。立ったまま覗きこむとおじいは「指輪。これドンキで買ったやつ、要ります? 二千円!」と差し出してくれて、それは指から取ったばかりで内側のメッキが剥がれていて温度があった。「二千円ちょっと高い」と自分は言い、おじいは「じゃあ千五百円!」と言った。自分はいろいろ勢いづいて、「睡眠薬あれへんの、それか睡眠薬買うてくれませんか」と言った。おじいは「ああ、俺な、今ないわ。買うてくれる人なあ……」と伸びた坊主頭に手をやり、少し大きな声で「なんぼかくれます?」と真っ直ぐ自分を見た。「教えたら。なんぼかくれます?」とさらに大きな声でおじいはその指輪を両手の指でしきりに動かしていた。自分は隙だらけになってしまってそこに立っている気持ちがした。

 

 落語の題目の、『手紙無筆』の中の会話を聴いた。「てめえさっきから何してんだよ」「何っておめえ兄貴に手紙書いてんだよ」「手紙っててめえ字書けねえじゃねえか」「いいんだよ! 兄貴も字読めねえんだから」感動を通り越してびっくりした。ここには何も入り込めないと思った、完璧だと思った。

 

 Sさんと別れて卵とじうどんを持ち帰って食べて眠って、部屋の窓はすぐに明るくなった。朝だけれどまだ酔っていて、後悔も、満たされたような気分もあった。チェックアウトするとき、フランス語を話す褐色の二人と目が合った。「あついね」「あついね」と日本語で言い合って笑った。

(了)

マリヲ(まりを)

1985年、大阪府生まれ。本名・細谷淳。ラッパー。 ●著作 『世の人』(百万年書房) https://millionyearsbk.stores.jp/items/63ae7535c9883d7772e2afbe ●Discography Fiftywater / F.W.EP (タラウマラ/2020) SUNGA + WATER / RA・SI・SA (タラウマラ/2021) 中田粥 + Water a.k.a マリヲ / シャインのこと (中田粥+タラウマラ/2022) Hankyovain feat. Water a.k.a マリヲ / 他人の事情 (Treasurebox / 2022)