2023年10月29日 夕方公開終了

向坂くじら(さきさか・くじら)

「ことぱ舎」という名前の国語教室を創設してしばらく経つ。このごろ、教室にはときどき、取材がやってくるようになった。ことぱ舎は四、五人も入ればいっぱいになってしまう小さな部屋で、取材班の人たちがぞろぞろ入ってきたときのその「いっぱい」感だけでもう、わたしはドギマギしてしまう。ふだん子どもか学生ばかりが訪れる部屋に大人が何人も入ってくると、ふしぎとみんな背が高く見える。反対に、教室のほうはふだんより狭く感じる。こんなにも非日常。しかし取材班の人たちはまさに「日常」のほうを撮りにきているのだ、という、そのズレも落ち着かない。

 わたしがそんなふうにそわそわしていたせいか、その日、生徒もひどく緊張しているようだった。普段はよくしゃべる六年生が、その日は用心深い目で辺りを伺い、はにかんだまま黙っている。彼女にも二、三の質問をしたいらしい、ということは、事前に伝えてあった。

「ことぱ舎にはいつから通っているんですか?」

「……二月……?」

 目を空中に泳がせてからわたしの方を向き、「だよね?」と確認する。「です!」と答えると、彼女も「です」と言いなおす。

 最初はそんな調子だったけれど、さすがに相手もプロで、そのうちだんだんおしゃべりがスムーズになってくる。「勉強は楽しいですか?」「楽しいー。なんか、自分のペースでできるし、雑談もしてるし」よかったよかった、と思って横目で見ていると、話題は作文のことに移っていった。実はわたしとしては、作文も教えるけれど文法や受験勉強も教える、その両方を同じ場所で行っていることをなにより重要視しているつもりなのだが、やはり「詩人の国語塾」という印象が強いのか、取材では作文指導の方が注目されやすい。そのときはちょうど、彼女がジェンダーについての作文を書き上げたばかりだった。

「作文、書けたときはやっぱりうれしいですか?」

「うん。うれしいです」

「この作文も、先生のおかげで書けたのかな?」

 あっ、と思った。あっ、ちょっとイヤな質問だな。生徒のほうからその言葉が出てくるならまだいいけれど、なにもないところから「先生のおかげ」という言葉を引っぱってきてくっつけるような聞き方は、いくらか乱暴に思える。しかもインタビューはわたしが見ている前で行われているんだし、子どもというのはときにびっくりするほどこちらに気を遣うものだ。実質、一択しか答えようがないような質問になってしまうんじゃないか。そのほかの取材はとても良心的だったぶん、かえってその一問が気にかかった。

 とはいえ、割って入るわけにもいかない。それはそれで、わたしのやりたい方に会話をコントロールすることになるわけで、それもまたあまりやりたいことではない。それで、むずむずしながらも、黙っていた。

 聞かれた生徒もまた、しばらくなにも言わなかった。質問の答えを考えているというよりも、そもそもなにを聞かれているのかがよくわかっていないように見えた。

「…………? ……はい……」

 首をかしげるような、小さな返事だった。煮え切らない雰囲気を感じとったのか、インタビュアーもそれ以上そこにこだわることはせず、後日掲載された記事にもそのやりとりは載らなかった。取材が終わったあと、彼女に「なんかイヤなことなかった?」と訊ねると、「載せるなら盛れてる写真にしてほしい」とのことだった。

 思い返すと笑ってしまう。あの釈然としない顔。そしてそれが、わたしにはうれしかった。一応、おそらく気を遣って「はい」と答えてはくれたものの、この人は、あくまで自分の力で作文を書いたと思っているんだな。

 実際のところ、正直に言って、そのときの作文はかなり教えたという自負がある。本当はもう少し静観していなければならなかったところ、彼女の意欲にほだされてつい教えすぎてしまった、と反省していたほどだった。しかしそれでもなお、「先生のおかげ」と言われて首をかしげるだけの余地が、彼女のなかには残っていたのだ。

 

 文化人類学者の原ひろ子さんのエッセイ『子どもの文化人類学』に、好きなエピソードがある。カナダの北西部にヘヤー・インディアンという狩猟採集民が住んでいる。原さんは彼らの社会に入り込み、十一か月を共に暮らして実地調査を行う。ときに「カルチュア・ショック」を感じながら、そこに通底する他者の論理までもを、静かな観察によって明らかにしようとする。

 その中で、ヘヤー・インディアンに「教えよう・教えられよう」とするような行動がみられないことに気づく。ムースを狩ってきた男や斧を使う子どもに「だれに教えてもらったの?」と訊ねると、誰に聞いても「自分でおぼえた」という答えが返ってくる。原さんが折り鶴を折っているのを見ても、ヘヤー・インディアンの子どもたちは「教えて」とも「もっとゆっくり」とも言わない。ただくりかえし折るように頼み、そのうち、自分でも紙をとって折りはじめたという。そのような質問と観察とをくり返し、至った結論はこうだ。

 

ヘヤー・インディアンの文化には、「教えてあげる」、「教えてもらう」、「だれだれから習う」、「だれだれから教わる」というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば、「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって「◯◯をおぼえる」のです。

 

 わたしの好きなのは、このあとだ。厳しい冬に備えて、原さんは雪上を歩くための「かんじき」を作ってもらう。しかし、履き方がわからない。越冬に対する不安もある。誰かに教えてもらおうとするのだが、「こんなことは、教えたり教えられたりするものではない」と言われてしまう。おまけに、雪が降る前にかんじきを履こうとしていることを大笑いされる。そのまま原さんは冬を迎え、しかたなく見よう見まねでかんじきを履き、歩き方やターンの方法まで、なんとかマスターしてしまうのだ。原さんには生き死にさえかかった切実なことだったろうに、なぜか笑えるこのエピソードは、このように締めくくられる。

 

こうなると、「かんじきのはき方を誰にならいましたか」と聞かれた場合、私だって、「自分で覚えたんです」と胸を張って答えるほかありません。

 

「えーっ、くじらさん慶応? どうやって慶応なんか入ったの?」と聞かれて、「勉強したんです……」と答えたことがあった。胸を張って、という感じではまったくなかったし、答えながらもすでに自分としては不完全な答えだったのだが。

 会社勤めをしていたころの先輩にされた質問で、そのひと言の中に、「高学歴」というめずらしい動物を見る好奇のまなざしと、かすかな疑心がこもっているのが伝わってきた。答える一瞬前に頭に浮かんだ答えは、「親が学費を出してくれるような家に生まれて、関東に住んでいて、そして、勉強したんです」というようなものだったけれど、そちらの方がかえって悪い結果を招くことをとっさに判断した。なんでもかんでもいけるところまで偽りなく答えればいいというものではない。人は天気や体調次第でそういった判断ができることがある。渾身の及第点だったが、先輩は興味なさげに、「へえ」と答えた。

このつまらないやりとりを、最近になってふと思い出した。中学生が自学自習をするための教材リストを公開したときだ。

 フリースクールの学習支援に関わるようになって、そこで学校の教材を使った自習をし、苦戦している中学生たちの姿を見た。学校の教材はあくまで集団授業で使いやすいように作られていて、自学自習には向かない。学校に行かない勇気ある選択をした中学生が、しかしそこで勉強までやめてしまうのではなく、みずから学びはじめること。大げさでなく、そこにこそ人間の美しい姿があると思った。だからこそ、そういうとき真っ先に彼らの手が届くのが、自習に不便な教材であることが悔しかった。ひとりで学ぶという選択そのものが構造からして否定されているとは思わせたくなかった。

 そこで、ひとりでゼロから学ぶための教材リストを作ることにした。わたしにはわからない科目までカバーするために、自分が習った塾の先生に監修に入ってもらった。わたしは、色めきたっていた。自分が習った塾というのもまさに自学自習形式の塾で、なにを隠そう、わたしはそこに通いはじめるまで、一切勉強ができない学生だった。それに、死んでもいいと思っていた。座って授業を受けることも嫌いだったし、学校という共同体も嫌いだった、教師も同級生も嫌いだった。だから、授業をおとなしく座って聞き、ほかの人たちと足並みをそろえて競争し、承服しがたい国語教師の解釈を丸暗記させられなくとも勉強できるなんて、夢のようだった。偏差値は倍くらいになり、死にたいとしても、生きねば、と思った。自分はなにもできなかったのではなく、なにもやっていなかったのだ、と悟ったからだったと思う。つまり、「ひとりで勉強する」を守り抜くことは、まずわたしにとってもどうしても重要なことだったのだ。

 万感の思いをこめてリストを公開すると、お世話になっている数学者の谷口隆さんからメールが届いた。「子どもの基礎学習は、それをsuperviseしている大人がいないと、自学自習というのはなかなか難しいのではないかと思っています」という、的確で親切な、そして、手痛い指摘だった。はじめ、とっさに、いや、ひとりでも勉強はできるはずです、そうでなくては、と返事をしたくなった。

 けれど、そのすぐあとに思い直した。

 そうだ、わたしも、ひとりで勉強したわけではない。わたしには先生がいて、まちがいなくその「supervise」を受けていたのだった。どうして、ひとりで勉強したなんて思っていたんだろうか。ああ、どうしてあのとき、あの先輩に、「勉強したんです」なんて言い切れてしまえたのだろう。

 

 ところで、TBS「水曜日のダウンタウン」で芸人のかまいたち山内さんがしていた話が忘れられない。「これまでで一番スゴいと思ったコメント」を紹介する企画だった。バラエティ番組で激辛のラーメンを食べる人の顔を「ミスチルの桜井さん」に喩えたコメントがすばらしかった、という。そしてなんと、それがあんまりすばらしいために、その場にいたかまいたちの濱家さん、そして山内さん自身まで、お互いに自分がしたコメントだと思い込んでいた、というのだ。

 奇妙な現象だ。そんなことあるのだろうか、と思う一方、しかし、確かにあるような気もする。本を読んでいて、あまりに深く納得すると、それがはじめから自分の考えであったような気がしてくることがある。このあいだ編集の北尾さんと対談していたら、北尾さんが「これは僕が言ったか、向坂さんが言ったかわからないんですけど……」と前置きをしてから話し出して、聞いてみると確かに、言ったような気もするし、言われたような気もすることだった。そしてそうなってしまった以上、互いにわからないのなら、もうどちらが言ったのでもよかった。編集という仕事をしていると、その現象はよく起きるのだという。

 ふりかえって思う。わたしは、自分の先生に教わったことに心から納得するあまり、それが自分の考えたことか、先生の考えたことか、見分けがつかなくなっているのではないか。自学自習形式という特性上、塾では「学習」そのものというよりむしろ「学習法」の方を教え込まれていた。なにをもって「覚えた」とするか、なにをもって「読めた」とするか、つまずいたときにはまずなにを検分するか、覚えても覚えても忘れることをどのように受け入れ、対処していくか。そしてそれ以前に、どのように勉強時間を確保するか、モチベーションをどのように取り戻すか、そもそもなぜ勉強するのか。それらすべて、確かに教わったことであったはずなのに、やはりどこかで、自分自身で習得したものである、という気がしている。

 そして、わたしはひとりで勉強してきたのだ、と、いまでも思えてしかたない。

 結局のところ、勉強をするということは、最終的にはひとりなのだ。

 原ひろ子さんが「教える」という言葉を持たないヘヤー・インディアンの文化の中で体感したことは、しかしわたしたちにおいても同じである。教える側がいかにたくさんのことを知っていたとしても、そしてそれをどれほど惜しみなく教えようとしていたとしても、最後にはわたしが自ら学ぶことしかできない。受験期間、そのことがなにより苦しく、おそろしかったのを覚えている。試験会場に赴くのは自分の身体だけであるということに象徴されるように、学ぶ自分がつねにひとりであることを、塾の先生はわたしに忘れさせないでいてくれたのだった。その孤独の感覚が、ひるがえって、わたしをずっと励ましてきたように思う。もちろん、それ自体がまず適切な「supervise」によるものだったのであって、その重要さを否定することはできないとしても。

 教わって学び、またわたし自身も教える仕事をすることを選びながら、ひとりで学ぶ力を信じようとしている。そのことに矛盾がある、といえば、あるのかもしれない。けれどもまた、教える立場に立たされてみてなお、まず生徒たちにひとりで学ぶ力のあることを信じていなければ、教えることなんて到底できない、とも、このごろ強く思うのだ。

 ヘヤー・インディアンの驚くべき「教育」のありようを、(自分とは関係ない)異なる文化として片付けてしまうことも容易いし、反対に「教える/教わる立場からの脱却、これこそが教育の本質だ!」とおおげさに読み替えて、逆張りに利用することも容易い。そのどちらにも偏らずにすむように、最後にはひとりで学ぶことしかできないわたしたちが、しかし教えようと/教わろうとする、とはどういうことなのか、いまはそこに居とどまっていたい。

 原ひろ子さんはまたこうも書いている。

 

ヘヤーの子どもたちが、折鶴を覚えるときには、その紙と子どもの間に強い交流が存在するのであり、彼らは、私と紙との間にある交流(つまり私が折紙を折っている状況)を、自分で再現しているといえると思います。ですから、子どもと私の間の交流は彼らにとって、主観的には重要でないのです。

 

 とても重要なことが書かれていると思う。言い換えれば、学ぶ内容と生徒の間の交流が重要なのであって、先生と子どもの間の交流が重要なのではない。深く納得され、体得されたことにとっては、もはやどちらが言いはじめたことでもかまわない。つまりわたしにとって、生徒に好かれているか、尊敬されたり感謝されたりしているか、そして、「このことは先生に教わった」というふうに覚えられているか、ということは、まったく重要ではない。教えるわたしにとって重要なのは、いかに生徒と世界とのあいだの関係を結びなおせるか、ということなのである。

 だから、胸を張って答えてほしい。この作文はわたしが書いたのだ、わたしが、わたしのおかげで書けた作文なのだ、と。これが、わたしの教える側としての態度の話をしているのではないのだということを、どうかわかってもらいたい。わたしは、単なる事実の話をしているにすぎない。(了)

向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。