2023年10月01日 夕方公開終了

向坂くじら(さきさか・くじら)

ここだけの話、詩を教えるのがいちばん苦手だ。
いや、書いてもらうのはいい。一般向けに作っている詩の講座で教えるのはもちろん平気だし、自分の教室ではそこまで詩の指導はやらないものの、たまに子どもの方から書きたいと要望があれば扱うこともある。それはそれで楽しくやっている。苦手なのは、読解の教材に出てくる詩の単元のことだ。たとえば、こんな問題がある。

鹿                                                                                                      村野四郎

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さな額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

この詩の「生きる時間が黄金のように光る」のところに傍線が引いてあって、この箇所の説明として適当なものを次から選べ、とある。せっかくなのでここで、国語の選択問題の解き方をお伝えしておこう。受験対策でよくあるのは「消去法」作戦で、選択肢の文言を目を皿にして読み、ひとつでも本文の内容と合わないところがあればその選択肢を削除せよ、という解き方。システマチックに使える一方、問題のレベルが上がって選択肢が複雑になったときに足をすくわれるリスクがある。それに、システマチックに使えるということはつまり、あまり頭を使わずに解いているわけで、あまり読解力の訓練にはならない。
ではどうするのかといえば、設問を読んだ段階で、選択肢とは関係なく答えを考えるのがいい。選択肢を見るより先に自分の中で答えの方向性を定めておいて、それから近い選択肢を選ぶ、そうすると面倒な選択肢にも引っかかりづらいし、ついでに考える力もつく。河合塾講師の小池陽慈先生は、これを「ズバリ法」と呼んで推奨している。他にも多くの先生がおすすめする方法であるらしい。
さっそく、「ズバリ法」を使ってこの問題を解いてみよう……と言いたいのだが、これがなんとも、むずかしい。「生きる時間が黄金のように光る」の適当な説明をしないといけないのだが、評論文や物語文にくらべて、詩の一行のなんとつかみどころのないことだろう。
とはいえ、順番にいけばなんとか読めるはず。「生きる」主体は、さしあたっては「鹿」だろうか。ここまでは今まさに撃たれんとする鹿の姿が描かれているのだし、「(鹿の)生きる時間」であるとして無理はないはず。「黄金のように」というのはもっぱら、美しさを、それも寺院のような荘厳な美しさ、ただならぬ値うちを持った美しさを感じさせるといってよいだろう。その念押しのように、述語には「光る」が来る。その主語はいうまでもなく「時間」。鹿の身体が光るのでも、あるいは二行目に出てくる「夕日」が光るのでもなく、ここでは「時間」そのものが光るのだ。この詩を素朴に読んで浮かぶ風景としては、夕日を受けた鹿の輪郭が煌々と光っている姿なのだが、それをあえて「否、あそこで光っているのは時間である」とするところに技巧的なおもしろみがある。だんだん読めてきた気がしてくる。鹿を見ているこの眼差しの持ち主は、死に面した鹿の姿を見て、「時間」のそのような美しさに胸をうたれたのだろう。わたしがこの問題を解くのなら、だいたいこんなところで選択肢の確認に移る。ちなみに、この時点ですでに、いや、これ小学五年生の問題にしては難しいのではないか、と思っている。
選択肢を見てみよう。

ア  何事にも動じず、信念をもって生きてきた鹿の美しさが森のやみを背景にきわだっていること。
イ  運命に身をまかせ、人間をうらむことをしない、純粋な鹿の気高いたましいのこと。
ウ  死に直面しても、おそれず、堂々と最後まで生きぬこうとする鹿の強い意志のこと。
エ  わずかに残された時間の中で、鹿の命がひときわかがやきを増していること。

…………どれだ?
「時間というものの美しさ」だけに賭けてここまで来たら、完全に見失ってしまった。といっても手づまりではなく、こうなってはじめて消去法を使う。ア。「信念をもって生きてきた」はちょっと言いすぎだろうか。読者たるわれわれはそこまでこの鹿のことを知らないはずだ。イの「人間をうらむことをしない」「純粋な」もそう。ウの「堂々と最後まで生きぬこうとする」も、真っ赤なウソではないが確定もしていない。エ。「鹿の命がひときわかがやきを増している」も、「かがやきを増している」のが「命」であるとは言い切っていないように思える。……正解がない!
お分かりだろうか。正解は「エ」。わたしの考えの延長で正解を出そうとするなら、まあ、当初の読みで「鹿の生きる時間」としていたものは「鹿の命」と同義といってもよかろう、というところで、なんとかエを選べる。しかし、あまりに消去法すぎる。「誤答を探して消していく」という解法としての消去法ではなく、「四つの釈然としない選択肢の中でもっともマシなものを選ぶ」、いわゆる消去法。
案の定、生徒は「ア」を選んだ。もちろん上記に書いたような消去法(解法)的な説明はできるけれど、「ズバリ法」的に本文に軸足を置いて説明しようと思うと、どうもむずかしい。「生きる時間が黄金のように光る」ということは、ただそれだけであって、そのほかの言葉にはどうしても言い換えられないような気がしてくる。「時間が光る」というのはそのままの意味で、なにも「命」のことをわざわざ「生きる時間」と言い換えているわけではないのではないか。逆に「黄金のように光る」ようすに、わたしたちがある「信念」を読み取ったとしても、別段かまわないのではないか。
そんなことをあれこれ考え出すともうだめで、一応「ア」が誤答である理由こそ説明したものの、加えて上記のようなこともすべて話すことになった。大切なのはいまこの問題を解けるかどうかではない、選択肢問題を解くときの考え方がわかること、そして、詩や国語を嫌いにならないでいてくれることだ、と、自分に言い聞かせながら。わたしが首をかしげながら話すのを、生徒も一緒に首をかしげながら聞いていた。ああ、詩を教えるのがいちばん、苦手だ。しかしまあ、曲がりなりにも、詩人と国語塾代表の両方を名乗っている身として、こんなことで本当によいのだろうか。
ちなみに極めつけは最後の設問で、実際の教材ではこの詩のタイトルは伏せてある。その上で、「この詩の題名を詩の中から抜き出しましょう」というのだ。生徒は「森」と答え、これに関してはもう、マルもバツもつけなかった。アが誤答な理由は話せたとしても、「森」が誤答な理由は話せない。お手上げだ。だって、「額」でも「時間」でも「夜」でもいい。
一語抜き出すなら、わたしなら「彼」にすると思う。考えてみてほしい。

しかしまあ、おまえのようなものが詩の指導すらできなくて何ができるのか、と、自分でも思う。答えとしては、なにもできない。このあいだインタビューで、「なんで詩人を仕事にしようと思ったんですか?」と尋ねられ、「ほかにできないことがあまりに多いからです」と答えたら、謙遜をしたあとの空気になってしまった。謙遜ではない。自分の人生に力づくで教えられた、深い実感である。
いろいろ理由があって大学を卒業したあとにも就活をしていて、かつなんの理由もなく落ちまくり、夏になっても働き口が見つからなかった。「うちの会社、社訓が『変』なんです! 採用基準も同じで、変じゃない人は採らないですよ。だから変な人ばっかりいます!」という面接官に、「向坂さん、僕がいままで会った人の中で一番変ですね……」と言われたときには胸が躍ったが、間もなく不採用の連絡が来た。びびるな、と思った。ありあまる変さにびびるな。
それで一回だけ、就職エージェントに相談しにいったことがある。相談相手が欲しいとは思わなかったが、とにかく誰かにわたしの代わりに履歴書を送り、スケジュールを管理してもらいたかった。面談スペースで会ったエージェントのお兄さんは、髪をワックスでがちがちに固めていた。
「今日は棚卸しみたいな感じで、なりたい自分になるためにはどういうキャリアがいいのか、一緒にね、考えていきたいと思います」
棚卸し。みょうに工業的な響きを持つその言葉が、「人生を振り返る」というような意味で使われることは、なんとなく聞いたことがあった。ステンレスのラックに陳列された自分の肉体を思い、それらをこの人にわざわざ広げて見せてやることを思った。そこに並ぶと、「なりたい自分」というのもまた、同じように埃をかぶった、工業的なにおいを放つのだった。
「なんか子どもの時から好きなこととかあります?」
「読書とか……書いたりするので、そういうのはずっと好きですね」
「あーじゃあわりとひとりで黙々やるのが好きなタイプ?」
「うーんいや、でも細かい作業苦手で、人と話すのは割と好きです」
「いいっすねー。接客とか営業とかもわりといける感じですか?」
「あっ、すいません、わたしゆっくりしか話せないので全然いけないです……」
このあたりで、すでにお兄さんを困らせているのがわかった。自分でも、自分の言っていることの辻褄が合っていないような気がする。ひとことひとこと、問われたことに本心から答えているはずなのに、まったく自分の姿が一本の線を結ばない。答えがばらばらの点のまま、宙に浮いている。しかしそこはお兄さんも手慣れていて、おそらくお決まりの質問で落としにかかる。
「ちなみに、なにしてるときが一番ワクワクするっすか?」
「自分の活動で作ってる作品がうまくいったときですかね……」
「なるほどなるほどー。それって、どういうときに感じます?」
「ライブのお客さんの反応とかですね」
「そういうときってやっぱ嬉しいっすかね」
「まあ、そうですね」
「ですよね! それって結局、なんで嬉しいんですかね?」
「お金払って来てくれたお客さんが喜んでくれるのは、よかったなあと思いますよね」
「人が喜んでると嬉しいってことですか?」
「まあ、そうですかね、誰しも……」
「ちなみに、子どもの時からそういうところありました?」
「うーん、多かれ少なかれ……」
「じゃあ、誰かを喜ばせる仕事が天職じゃないすか!?」
ぼーっと答えていたら、いつの間にかお兄さんが結論らしい雰囲気を出していたので、それに押されて「はい」と答えた。そうしたらなんだか「それってやっぱ、才能っすよ!」と明るく励まされ、接客系の求人を二つ、三つ渡されて、面談は終わった。煙に巻かれたように帰って、そのあとお兄さんから来たメールには、二度と返事をしなかった。
こうしてやりとりを思い返してみると、不思議に思う。わたしはお兄さんの訊ねてくることに、ひとつも嘘をついていない。自分で面談を申し込んだのだから、いくら髪がワックスでガチガチだったからって、お兄さんに意地悪をしたかったわけでもない。それなのに、お兄さんの熱心な質問は、実在するわたしという像に一切迫らなかった。
問うてみて、答えを聞くこと。その失敗をお兄さんに思う。彼は確かにわたしのことを理解しようとしてくれていたのかもしれない。だからあんなふうに、答えたことのさらに先へ、さらにその先へ、と、問いを重ねるような聞き方をしたのかもしれない。けれど、元がどんなに複雑な気持ちであったとしても、「それはつまりどういうこと?」「それはなぜ?」と問いかけるうち、漂白されて、誰にでもわかる形に単純化されてしまうのではないか。更問いの果てに残るのは、「うれしい」とか「さびしい」とか、誰にでも言えるつまらないことだけではないか。その作用を無意識にわかっていればこそ、彼はわたしに訊ねたのではないか。
そこからひるがえって、自分のほんとうのところを、誰かに語る困難さを思う。

「ここで仲直りしたのは、どうして?」
生徒の書いた作文にそう訊ねてから、しまった、と思った。友だちと行った旅行のことを書いた作文だった。旅行二日目、読んでいてちょっと心配になるくらい友だちと喧嘩したというその子は、しかし三日目には仲直りをする。そこの描写は、これ以上ない簡潔さだった。

新幹線でねてたら私の口にじゃがりこを入れてきて、仲良くなった。

これだけだ。鬼気迫る喧嘩のシーンがあったあとだから、なおさらその素朴さが際立つ。ストーリー上でも重要なところである。本当は、「じゃがりこを入れてきて」どう思ったのか、そのほかにどういうやりとりがあったのか、仲直りをしたあとは気まずくなかったのか、もっと知りたい。けれども、「ここで仲直りしたのは、どうして?」と訊ねた瞬間の生徒のきょとんとした表情で、それが愚問だったことがよくわかった。彼女が友だちと仲直りしたのは、友だちが口にじゃがりこを入れてきたからだ。そして、それ以上のことは、なにもないのだ。
一応、「喧嘩のところに比べて仲直りのところがめっちゃ短くて、めっちゃあっさり仲直りした感じになってるけど、合ってる?」と訊ねたら、うん、と答える。それならば、それでいい、と思った。これで、例えば「なんとなく機嫌がなおって」とか、「友だちが仲直りしたいのがわかって」とか、そんな説明を入れたとしても、それは彼女の現実からは遠ざかるだけかもしれない。先生である前にいち読者であるわたしとしてはそちらのほうが分かりやすいようにも思うけれど、しかしそれよりも、「じゃがりこを入れてきて、仲良くなった」に、いっぺん心底納得してみたくなったのだった。言われてみれば、そんな気がする。友だちと仲直りをすることに、それ以上の理由はなにもない気がしてくる。ここが底だ、と思う。更問いの、ここが底だ。

もうひとつ、わたしの苦手な詩の問題を紹介したい。次は三年生の教材から。「鹿」よりは二学年下がって、簡単になるだろうか、どうだろうか。

こころ                                                                からすえいぞう

ゆうやけが
あんまり きれいだったりすると
おれ しんとした こころになる
ゆうやけの ところへいって
はなしあいたくなる

なにを はなすかっていうと
あかちゃんだったときの こととかさ
しょうらいどうなるかって こととかさ……

いつもは こんなこと
おもわないんだぜ
  ・・・・・・
おれ こころ
いっぱい もっているんだな

(工藤直子)

 

いきなり問題へ行こう。

『しんとした こころ』とありますが、どんなこころですか。次からえらび、記号で答えなさい。

ア はらだたしいこころ
イ しんみりしたこころ
ウ ゆかいで楽しいこころ
エ のんびりしたこころ

どうだろう。
白状しよう、わたしはやっぱりだめだ。どれも正解に見えるし、どれも間違いに見える。「鹿」よりむしろむずかしくなっていないか。説明文や物語文の問題では絶対にこんなことは起こらないのに、詩の読解問題だけはどうしてもスッキリと解けない。やっぱり、「しんとした こころ」と書かれてあるものは、それ以外のなにものでもない、「しんとした こころ」しか書けないものでないといけない、と考えてしまう。それはそもそも、詩の言葉とはかくあってよい、と、わたしが思っているからだろう。詩はそのもので、すでに語り終わっていて、説明を必要としないのだ。
問うてみて、答えを聞くこと。それが、教えるという仕事そのものであることに、ときに戦慄する。けれど詩であれば、問うてみて、途中でやめる、ということが、かろうじてできるのかもしれない。誰にでも伝わるつまらない結論に軟着陸しそうになるのを空中で押しとどめ、そこを問いの底にしてしまえるのかもしれない。
大体、わたしの人生からして、いまだ辻褄があわないままである。

(了)

向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。