2019年03月03日 夕方公開終了
文=星野文月
昨日、大学時代のゼミの先生と電話でお話しした。
その教授は、長年哲学を研究しているからか、柔軟に物事を見ている。信頼している大人のひとりだ。
在学中のゼミで、「私が私であるということはどういうことか」というテーマの授業が行われたことがある。「私が私である条件」とはどのようなものか? たとえば私の顔がまったく違ったものになって、身体も改造されて、しゃべり口調も、思想も変わってしまっても、私は私であるか? といったことを授業で議論した。確か結論は出なかったけれど、このテーマは印象的でたまに思い出すことがあった。私は教授に、「恋人が脳梗塞で倒れて、もしかしたらひどい後遺症が残るかもしれない。もしそうなった場合に、以前とはまったく違う彼になるわけだし、もしかしたら記憶だって失っているかもしれない。そうなっても彼は彼なのでしょうか?」とメールで質問をした。学者としての教授の見解を聞きたかった。
すると「それは大変ですね。少しお話をしましょう」と言ってくれたので、会社のお昼休憩のときに電話をかけた。先生のゆったりとした優しい口調が懐かしくて涙が出そうになる。私の質問への回答は、今は事態が流動的だから何とも言えないということだった。現時点の情報がすべてではなくて、事態は移ろいゆく。「なるべくニュートラルな気持ちでいられるよう努めなさい」と言われた。
私のことを気遣ってくれて嬉しい、と思った。教授のスケジュールは多忙を極めていて、学生たちから「一体いつ寝ているのだろう」と心配されるほどだったから、電話までかけてくれて本当にありがたい。
だが、私の心配よりも、私がした質問への明確な答えが欲しかった。もしも、病気のせいでユウキさんの記憶がなくなったり、話せなくなったら、彼の造形がまったく変わってしまったら、ユウキさんはユウキさんだと言えるのか。その時、私はどうしたら良いのか。
教授には、ほとんどすがるような思いで質問をした。学術的な根拠が得られたら、ちょっとは強い気持ちが持てると思ったから。だが、それに対する回答は得られず、正直残念に思ってしまった。
もしユウキさんが半身麻痺になったとしても、私はユウキさんを支えたいと思っている。
もしも私が倒れたらユウキさんは絶対に付き添ってくれると思うし。
私はユウキさんがどんな状態になっても傍にいることを選びたい。
今日こそはユウキさんのご家族から連絡が来ると良いのだけど……。(つづく:3/2更新、私の証明07-「六月二二日」)