2025年08月07日 夕方公開終了
文=堀静香
子どもが保育園から短冊を持ち帰ってきた。何も書かれていない。何も書かれていなくても、細長い色紙の上に穴が空いていればそれは短冊で、短冊の、この短冊感というのかなんなのか、妙に説得力がある。もう七夕は過ぎているけれど、とにかく家でお願いごとを書いて持っていく、ということらしい。
去年はたしか、園の入り口にそれぞれの願いごとが書かれたものが飾ってあった。先生がひとりずつに訊いて書いてくれたのだろう。うちの子どもは何と書いたのだったか、思い出せない。○○がほしい、○○になりたい、など子どもの願いはたいていシンプルな欲望かぶっとんだ将来像のどちらかで、それがどんな願いであっても、すべて微笑ましい。
じゃあ、お願いごとなんて書こうか、と食後子どもに促すと、すかさず「シンカリオンがほしい」と言う。うーん。シンカリオンはさ、今度のお誕生日にもらえるよ。お願いごとっていうのは、プレゼントみたいに、その日が来れば必ず叶うようなものじゃなくて、なんていうか、叶うかどうかわからないことを書くんだよ、と説明する。四歳の子はわかったのか、うーんと考え込む。子が考える姿を見るのが好きでつくづく眺めてしまう。
「じゃあね、」
「うん」
「みんなが、」
「「みんなが!?」」夫と声が重なる。
「みんなが元気に遊べますように」
おおー。みんなと、じゃなくて、みんなが。「みんな」が主語なんだ。
「あとね。みんなが、たくさんごはんを食べて、最強ムキムキマッチョになりますように!」
子どもの方では、どうやらふたつ目がしっくりきたらしく、満足気だ。一文字ずつ、ゆっくり読み上げながら短冊に書いてゆく。みんな、という言葉が出てきたのがびっくり、と夫と言い合う。みんなの元気を祈るなんて、もはや宮沢賢治じゃん。四歳にしてねえ。すごいねえ。親バカにもほどがあるが、わたしたちは鼻息荒く、ひとしきり子を褒めたのだった。
翌日、お迎えのときに早速朝持たせた短冊が飾られていた。「あーちゃんのお願いはムキムキになりますようになんだね、ええねー」と先生に声をかけられて(そっちじゃないんですよ、大事なのは主語の「みんな」のほうです!)とは言えず、つくづく親の自己満足なのかもしれない。
「プリキュアになりたい」「泳げるようになりますように」「ハウステンボスに行ってみたい」「ママときゅうきゅうしゃに乗りたい」(それはシチュエーション的に緊急事態なのでは……)など、ひとつずつ眺めながら心中で突っ込みを入れる。「おかねもち」というのもあって、なんというか自由だ。自分でがんばって書いたらしいそのいびつな五文字は、とても輝いている。
ひとり一人の「お願いごと」を見ていると、わたしたち夫婦は子どもの短冊ひとつにいちいち考えてこだわって、干渉しすぎだよなあと思う。「シンカリオンがほしい」でも全然よかったはずなのに、最初の子どもの願いごとを取り下げて、別案を探ってしまった。子どもなんだから、願いが自分の卑近な欲望だって全然かまわない。だからこそ、一生懸命自分で考えて書いたひとりの「おかねもち」は尊い。
大人の願いごとは、なんというかまっとうだ。ついこの間、通りすがりに神社で見かけた短冊には、「家内安全」「家族が健康でありますように」と、ほとんどが身内の暮らしの安寧を祈るものだった。つくづくまっとうである。そしてわたしだって、そっくりそのまま、同じことを願う。自分の欲望、家族の安泰、みんなの幸福。祈りのレンジ、というのかその幅を、長じるにつれ狭めてしまっている。ひとまずは、自分のまわりが安心して暮らせればいい。いつのまにか、自分と半径せいぜい2キロほどの人間関係と、それ以外の他人とを分けてしまっていることに気づく。
それこそ、子の言う「みんな」はきっと、顔の浮かぶ「みんな」なのだろう。保育園の、一番仲のいいクラスの友だち。たまに砂場で遊ぶ、違うクラスの子どもたち。気は合わないかもしれないけれど、先生に促されれば手をつなぐこともある、それもやっぱり友だち。顔の分かる、名前を知った仲間たちを「みんな」と呼んで、きっともっともっと知らない人を含めて外には数え切れないほどの「みんな」がいることを、子はまだ知らない。知らない、というよりきっとうまく想像できないだろう。
けれど、「知らないみんな」を想像できないでいるのは、ほんとうには自分のほうじゃないか。みんな、と自分が口にするときの誰でもなさを思うと、胸がざらざらする。好きなひと、そうでもない友だち、同僚、知り合い、その先の先にいるたくさんのひと。ひと、ひと、ひと。名前を呼べるひとり一人、その先には当たり前のように、わたしの知らないひとりがいる。
保育園の隣には老人介護施設があって、そこにも短冊が飾られていた。「お金がほしい」の横に「お金がたくさんほしい」とあって笑ってしまう。こんなささやかな場所で小さなマウントを取らなくても。園のものも、介護施設のものも、短冊のほかに折り紙で作られたとりどりの飾りがたくさんぶら下がっていた。モチーフとしてはっきりわかるのは星くらいで、あとは何やらちょうちんのような形、吹き流し、網飾り、ひし形のもの、名状しがたい抽象的な飾りばかりで、なんだかそれが妙におかしいのだった。さまざまな願いや祈り、謎の飾りの重さに、どの笹も大きくたわんでいる。
祈っても祈らなくても来る明日におそらく使い切る黄の付箋/笹川諒
堀静香(ほり・しずか)
1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。