2025年05月01日 夕方公開終了

文=堀静香

大学生のときに初めて触れて以来、かれこれ10年以上短歌を作りつづけている。母が先に始めていたこともあり、当時は自分にとって身近な表現方法として気負わず始めたから、こんなに長くつづけていることなど想像もしなかった。そして辞めずにいればいいこともあるもので、縁あって昨年『みじかい曲』という歌集を上梓した。
ほかの韻文はどうなのかわからないけれど、歌集の場合それが一冊目であれば、たいてい「第一歌集」と念を押すのが通例で、帯の背表紙にも多くの場合「第一歌集」と入っている。ということが頭にあったから、担当編集者との打ち合わせで「帯の背どうしますか」となったときも「第一歌集で」と即答した。
以前「第一、ってことはすでに第二も想定されてるんですか?」と不思議そうに訊かれたことがあるが、そう考えると妙ではある。もちろん第二、第三、と出すことがかなえばいいが、先のことはわからない。生涯一冊きりの第一歌集になる可能性だってもちろんある。
実感として、どうにも歌人の場合、第一歌集に魂というか作家性というものが凝縮されて宿るように思う。もちろん誰もいま以上によりいい歌を、と思って歌作をつづけるわけだけれど、結局代表歌はその人の初期作であったりする、そういう不思議な抗えなさ、みたいなものがある(という一連の話は穂村弘もどこかでしていたと記憶する)。ともあれ、その歌人の船出としてあえて名乗ることの意志というか、「やっていくぞ感」というのが「第一」という言葉に現れているのは間違いない。
その第一歌集を出したからには、わたしもいよいよ歌人と名乗ってもいいかもしれない、そう思うに至った。以降おずおずと、歌人と名乗っている。なんでも名乗った者勝ちとよく聞くけれど、それはつまり、名乗ることでしか自覚は芽生えないということなのかもしれない。自分が母親になって、子に呼んでもらうためにママと呼称し始めたときにもそう思った。名乗れば相手も呼んでくれる。着慣れない制服だって、毎日着るうちに馴染んでくる。だからきっと、名乗るうちに歌人だという自覚も湧いてくるものなのだろう(まだ制服は着慣れない)。

この冬、同い年の歌人石井僚一さんが山口にやってきた。石井さんは、ただ歌会(「石井は生きている歌会」という良すぎるネーミング)をするためだけに、忙しい合間を縫って全国を渡り歩いているというやばい人である(褒めています)。それで歌会の翌日、石井さんとわたしと、島根から来てくれた日下踏子さん、田村穂隆さんとで山口を観光することになった。
行き先は友人知人、誰かが山口に遊びに来るたびに案内する定番観光スポットの秋吉台。カルスト台地は一面の草原で見晴らしがよく、その下にある秋芳洞という鍾乳洞は年中一定の温度で夏は涼しく、冬はあたたかい。中も広く探検できるのでなかなか楽しい。が、山口在住の身としては行き慣れた場なのでいまさら感動もなく、みんなが楽しんでくれればいいな、くらいの軽い気持ちで今回もお伴したわけだった。

秋芳洞の入り口近くには土産物屋が並ぶ通りがあって、なんというか言葉を選ばなければ大変寂れており、素通りすればすぐに洞窟の入り口に着く。ところが、われわれはこの寂れた土産物ロードにおよそ一時間滞在した。一つひとつの店の前で立ち止まり、ひやかして回る。自分なら怪しんで決して入らないであろう類いの謎の焼き物の店に3人は怯まず入り、いかにも一家言あるふうの店主とおしゃべりしながら、石井さんも日下さんも焼き物を購入していた。
やっと入洞した秋芳洞にしても、それぞれがすぐに立ち止まってしげしげ眺めるので先に進まない。石灰成分が沈殿してできたさまざまな形に、百枚岩だとか黄金柱だとか名前が冠されている。音声ガイダンスの声に聞き入ってみたり、追加料金を払ってさらに奥地へと進む冒険コースに果敢にも石井さん、日下さんが入ったり、とにかくこれまで訪れたなかで一番時間をかけてゆっくりと巡った。
やっとのことで着いたカルスト台地、もうみんなすっかりへとへとのはずなのに、展望台から見えた森を目指してみることになった。長者ヶ森というその森には、たしか以前行った記憶があり、ちょっと歩けば着くだろうと甘くみていたが歩いても歩いても、いっこうに近づかない。寒空の下、一列になって4人で黙々と歩く。結局わたしが「もう歩けない」と泣きごとを言って引き返してきた。わたしが止めなければ、3人はちゃんと森に辿り着いたかもしれない。

明らかに、いままでで一番充実した秋吉台観光だった。秋吉台ってこんな楽しいところだったっけ。いや、どこだってなんだって自分以外の3人が、目に映るものすべてを全力で面白がるからだ。前回、わたしはどこかで歌人のことをおそれているのかもしれない、と書いた。鑑みるに、それは自分が一貫して徹底的な凡人という自覚があるからなのだ。ほんとうの歌人は、わたしが「ふーん」で素通りするようなものを、決して見逃さない。見逃さないから歌人なのだろう。多くの人に忘れ去られながら世界のあちこちに散らばる芥をじっくり眺めて寿いで、歌にする。わたしは、だからまだまだ全然、まがいものである。

シャッターの半分閉まった土産物屋で、日下さんがほこりの被った小さな犬の置物をすっと手に取った。するとその犬はにわかにかがやくようであった。日下さんに見つけられなければきっと永久的にそこに置かれたままであったはずの、犬。包んでもらうのを待ちながら、「自分のお店に飾ろうかなあ」と日下さんは言っていた。一度訪れたことのある島根の書架「青と緑」の静かな空間のどこかに、小さな犬がいる。迷いなく一匹の犬を選んだ、あの彼女の指先のことを、よく思い返す。

あなたがひかりに呑まれてしまう日のために洞窟に鏡をふたつ置く/田村穂隆

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。