2025年04月03日 夕方公開終了

文=堀静香

前回、映画『どうすればよかったか?』のアフターアワーカフェに参加した、という話を書いたが、そのときのこと。隣に座った人と雑談のなかで、この後保育園のお迎えがあるから15時にはここを出る予定で、と話すと、「えっ大学生かと思ってました」と言われた。大学生、って私が……? 一瞬フリーズした後、いやいやいやよく見てください、ほら35歳です! とめちゃくちゃ顔を近づけてしまった。相手があはは、と笑うので合わせてへらへらしていたが、後からじわじわと、いや待てよ、もしかするとこれはあまり笑えないことなのではないか、と思い始めるのだった。
ちょっと若く見られるというのは、わたしはけっこう、単純にうれしい。実年齢マイナス5歳くらい、つまり30歳くらいに見えるとか。けれど35歳が大学生に見える、というか見えてしまうのは、なんというか「だめ」なのではないだろうか。よろこびを通り越してぎょっとしてしまう。つまりは、まっとうでないと言われたような気が、どこかでするのだと思う。全然大人になれていないですよ、社会に適合できてないですよ。それが顔にあらわれちゃってますよ、というような。

さっそく、夫にこの話をすると正面からじっとわたしを見つめた後、「深い意味なんてなくて、ただ化粧っ気なくて、かつそんなだぼだぼのパーカー着てるからでしょ」と一蹴された。あ、そういうことか。単にぼさぼさのだぼだぼだったってことか。そかそか。ならまあいいか。いやいいのか?
もし身なりがもう少しきちんとしていれば、もちろん印象はまた変わるのだと思う。じっさい、ジャケットを着て教壇に立つわたしは、先生にしか見えないわけで、その姿を誰も大学生などとは思わないはずだ。ただ、じゃあ誰もがだぼだぼのパーカーさえ着れば大学生に見えるのかというと、おそらくそうではない。
多くの人は、学校を出れば働いて、働く先できっと大人になる、というかどうしてもならざるを得ない。その過程でさらされる理不尽や非合理さとかによって、揉まれ、疲弊し、次第に均されてゆく。社会人の装いを、実年齢に沿わせてゆくことによって、社会が求めるようなまっとうさを、だんだんと獲得してゆく。
わたしはこれまでそういうものを退けて、退け続けてここまできてしまった、というのが実情のような気がする。年相応の苦労をしておらず、ずっと学生の延長のような精神性を有しており、へらへらふわふわしたまま35歳になった。だからきっと、ある面では大学生にすら、見えてしまうのだと思う。苦労がないからしわも白髪もない。幼さって、こうして滲み出てしまうものなのだろうか、と思うとちょっとぞっとする。

ただ、ならば自分以外はみな実年齢と見た目が合致しているかといえば、きっとそうではないし、そもそも自分の気持ちと実年齢が常にしっくりきている人なんとそうそういないのではないか。若いからどう、ということでもなく、きっといくつになっても、いまの年齢に居心地の悪さを感じてしまうような気がする。そう思えば、これまで生きてきた20歳の自分も、30歳の自分も消え去ってしまうのではなく、実は自分のなかのどこかに留まって、35歳のいまのわたしを遠く近く、眺めているのかもしれない。

人はみな馴れぬ齢を生きている ユリカモメ飛ぶまるき曇天/永田紅

そう勝手に思い直すとき、必ずこの歌が浮かんでくる。年齢って、着慣れないシャツのようだ。と書いてそんな喩えはどこにでも転がっていそうだけれど、着慣れない服を毎年着せかえられて、だって子どもの頃のように、身体がぐんぐん成長することはない。服だけは年々大きく新調されるのに、当のわたしの成長はとっくに止まっている。ぶかぶかのだぼだぼのシャツのまま、また新たな歳を迎える。そんなふうに自分が自分のいまの歳にしっくりこないように、きっとみんなみんなそれぞれに、「馴れぬ齢を生きている」。もはや、短歌というより上の句だけ見ればいっそ格言に近い。そのくらい、真理であると思う。
そうして見上げる空は曇天で、ユリカモメが一羽、二羽まばらに飛んでいる。空を丸く切り取るように、輪を描きながら飛んでいて、白っぽい鉛のような空に、カモメの色はいまにも溶けてしまいそうで、どこか心もとない。いま、過ぎてゆく待ったなしのいま。ほんとうには、この待ったなしの「いま」に慣れないまま、きっとみな次の歳を迎えている、そういう確信だけがある。

堀静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。歌人、エッセイスト。「かばん」所属。上智大学文学部哲学科卒。中高国語科非常勤講師。著書にエッセイ集『せいいっぱいの悪口』『がっこうはじごく』(百万年書房)、『わからなくても近くにいてよ』(大和書房)。第一歌集『みじかい曲』(左右社)で第50回現代歌人集会賞を受賞。