2022年12月05日 夕方公開終了

堀 静香(ほり・しずか)

ふと、下の歯の詰めものの一部が欠けていることに気づく。鏡で確認すると、被せものの角がほんのわずかに欠けていた。欠けたところはとても鋭く、舌に触れる。このまま放っておいた場合、虫歯は進行するのだろうか。いずれにせよ、食事のたびにこの小さな穴に食べカスが詰まるのは不快なので、歯医者の予約を取るべきなのだが、気乗りはしない。
ひとつには、歯医者の台のうえで口を大きく開けて目を瞑り、起こることのすべてに身を委ねる、あの時間のことを思うからだった。治療自体に痛みはなくとも、音は大仰で物騒だ。いま口内にある器具に、たとえば舌をつけたらどうなるだろう、ということを想像する。舌は、粉砕されるだろうか。そうだとしたら、もっと注意喚起をすべきではないか。血まみれになるかもしれない。想像するたびに手に力が入って気づけば身体がこわばっている。「大丈夫ですか? すぐに終わりますからね」とやさしく声をかけられて、やっぱり背中に汗をかいている。だから、歯医者はどうにも億劫なのだった。
もうひとつは、子どものことだった。春から保育園に通いはじめて、以来途切れることなく体調を崩している。とくだん身体が弱いというわけではない、生まれてからこれまで熱を出したこともなかった。とにかく入って半年、いや一年はすぐに熱を出す、これは保育園の洗礼なのだ、ということをさまざまなところで耳にした。案の定、熱を出しては休み、吐いては休み、そのたびにわたしも夫もおろおろしながら看病し、交代で仕事を休む。次にまたいつ体調を崩すか分からず、だから歯医者の予約は困難なのだっだ。ぼんやりと、もう一度欠けた歯を舌でなぞってみる。
つい数日前までも、子どもは高熱を出して保育園を休んでいた。三九度が何日もつづき、下がる気配がない。いつも元気いっぱい部屋のなかをばたばた動き回っている子どもがぐったり、こちらに身を預けて一言も喋らないのはやはり心配だ。高熱がつづいて四日目、病院で突発性発疹かもという診断を受けた。多くの子どもがかかるものらしく、そのように分かれば安心だった。
それにしても、仕事にも行けず、読むことも書くこともできず、ただエンドレスで「いないいないばぁ」の録画を流しつづけながら子どもを抱いている、そういう一日を繰り返して、わたしの人生とはなんなのだろう、とぼんやりしてしまう。みんなは。みんなは今も有意義な時間を過ごしているかもしれないと思うと、やりきれない。どんどん、まわりのボートがぐいぐいと、進んでいくのを見送るだけ。ほんとうには、何に、だれに置いていかれるわけでもない。わたしが書かなくとも、べつにだれも困らない。そういう卑屈さと、でもそれは本心で、ふたつがゆっくり巡って、首から胸にかけてぴったりくっついた子どもの熱を、子どもの身体の重さごと、受け止めていた。

無為な時間、と思う。しかしそんな風に思うのは子どもに失礼かもしれない。看病するのが無為な時間なら、それ以外にいくらでもそういう瞬間はあるじゃないか。
たとえば、毎日何かが見つからなくて、探している。テレビのリモコンがないし、水筒の蓋がない。食器棚に置いていたものを、子どもが勝手にどこかへやるもんだから、置き場所の見当もつかない。ソファの下を這いつくばって覗き、クローゼットの扉の裏側を足で探る。あるいはあたらしいゴミ袋の突破口が見つからず、いつまでもつるつるつるつるやっている。こっちらは真剣だから、よけいにイライラする。夫に訊くとそんな経験はないと言うので、わたしの指が異様に乾燥しているのかもしれない。
中学の美術の時間を思い出す。マーブリングの授業で、先生は「白を作りたいときは、こう」と言っておもむろに自分の鼻を人差し指でこすり、水面にそっとつけた。すると先生の鼻の脂の白は水面の水色や赤、黄色などと混ざり合って、うつくしいマーブル模様を作ったのだった。あのときの、先生の鼻の脂をとる動作、それを同じ班の人たちと無言で眺めたこと。
無為、というより無駄な、それは空虚で、そこにあったってなくたって変わりのない、時間の浪費のようなもの。そういう、ただ無意味な時間というものが、他人にも同じように同じだけ、あるのだということが信じられない。みんな、ソファの下を覗き込んで水筒の蓋を探したり、いつまでもビニール袋をひらけずに、鼻の脂を使ったり、ちょっとためらいながら唾をつけたりしているのだろうか。混み合うスーパーで乾燥わかめを見つけられず、かといって店員に訊くのも恥ずかしい。歩き回れば回るほど、スーパー自体に生気が吸い取られていくような疲労をおぼえて、何もかもが嫌になる。そういう、意味も価値もない、できれば忘れてしまいたい時間が、有意義な時間を過ごすみんなにも、あるのだろうか。

映画やドラマに、こうした無意味なシーンが描かれないことを、よく思う。すべてのシーンには意味があり、ほんの些細な描写もひとたび描かれれば、それは後に重要な伏線になる。でもそうじゃない。ほんとうに見たいのは、登場人物の思いも欲望もその動作からは見えないような、そういうひとコマなのだ。感情に左右されない情景描写、それはただの情景かもしれない、そしてわたしはそれが見たい。
映画『めがね』に伊勢エビをみんなで黙って貪るシーンがあるが、わたしはあの場面が好きだ。大きくて立派な、茹でたての真っ赤なエビに、それぞれが無言でかぶりつく。そのときだれの感情も欲望も、こちらへダイレクトに渡されるものはない。ただそこにある、咀嚼音とビールを飲み干す喉の音。背景のヨロンの遠浅の、青い海。そのままを受け取って、ただこちらの腹が減るような、そういうワンシーン。
だれも教えてくれないから、他人にそういう無駄な時間があることを、いつまでも知ることができない。温くなったお茶を飲みながら、わたしはもう一度欠けた歯に舌で触れてみる。

一年半ぶりに行く学校は、わたしがいない間も変わらず学校だったんだな、と当たり前のようなことを大真面目に思う。年度があらたになれば多少教員の出入りはあるが、職員室の空気は以前と同じだ。久しぶりに会う先生たちに「もう復帰なんだ」「お子さんどう?」などと声をかけられながら、教室に向かう。
新学期、ちょうど一年半ぶりに会う生徒たちの顔を、思ったよりも一人ひとり、覚えていた。当時中一だった生徒たちはこの春中学三年生になった。一昨年の四月、初めて会ったときからお互いにマスクをして、だからわたしの知っている彼らの顔は、鼻より上の表情なのだった。もっと大人びて、顔も変わっているかと思ったが、ちゃんと分かる。また当時受け持ったこの学年を担当できるとは思わなかったから、うれしさと、すこし緊張もあった。
初回の授業では、わたしのほうが教科書を広げる気分にはならず、かといって何か用意してきたわけでもない。それを伝えると、生徒のうちのひとりが「じゃあ先生がいなかった一年半、何があったかひとりずつ話すのは?」と提案してくれる。楽しそうだ。みんながよければそうしよう、と言ってそれに対して特に首を振る子はいない。二クラスしかない学年の、三年目ともなるとお互いの気も知れて、そういうちょっとした発表にも慣れているから感心する。
「身長が二〇センチ伸びました!」「家の庭の池で飼っていた鯉が、大きな鳥に襲われていなくなりました」「小学生の弟が最近口を聞いてくれなくなって、もうそれって反抗期なんですかね」「兄が大学進学で家を出て、帰ってもいないことがさびしい」「一〇〇冊以上は本を読みました」「部活のレギュラーになったのに、骨折して試合に出られなくなっちゃった」「特になにも、変わってないな」そんなことを、一人ひとり、席を立って発表してくれる。立てば、みんな驚くほど背が伸びている。男子生徒は、声が低い。それぞれの発表にみんなで茶々を入れながら、ひとりが話し終わるたびに拍手をして、楽しく聞いた。
全員が話し終えてから、「先生は?」と訊かれる。わたしは、わたしは何をしてたのかなぁ、と頭をめぐらせて、随分もったいぶってから「子どもが生まれて、それでずっと子育てしてたよ」と言うと、知ってるよそれは! と口ぐちに言われる。チャイムが鳴って、その日はそれでおしまいにした。

学校からの帰り道には、ついハンドルから両手をはなしたくなるような、広くてなめらかな歩道がある。新生活にあわせて買った新しい自転車でここを通るのは初めてだから、ぐらつきながら、それでも両手をはなしてぐんぐん進む。右手には小学校があって、女の子ふたりが一輪車に乗っている。ときどき鉄棒に掴まりながら、すっすと進む。漕ぐごとにぐいっと進む一輪車のあの感触をすこしだけ思い出そうとする。思い出せるような、思い出せないような。ひとりはすぐに転びそうになって地面に足を着き、一輪車がそのはずみで前に飛びだす。ふたりともキャップをかぶって、その奥に見えるブランコに乗る子どもたちも、みな帽子をかぶっている。日差しが強いから、こういう日は外で帽子を被る決まりがあるのかもしれない。

子どもの保育園のお迎えは、一六時半までと決まっている。それを過ぎると超過料金がかかると聞いた。保育園までの一本道をぐいぐい進む。あたらしい自転車はタイヤが太く、安定して走れると謳われていた。六段階の変速もついている。とにかく、間に合うようにどんどん進む。
四月、桜が散れば町の花はすべて躑躅(ルビ・つつじ)になって、その字面の仰々しさ。髑髏と躑躅は似ている。自転車で走りながら目にする躑躅はかくもあざやかで、中学生になって初めて手にしたアクリル絵の具の色を思い出す。マゼンダ、という色をそのとき初めて知った。信号を待ちながら、植え込みの躑躅はすべての花が日のほうを向いて、それが一つひとつ、顔のようでそう気づいてしまうとちょっと気味悪い。花びらが散るのではなく、花ごと逆さまに落ちている。四月の日差しはすでにこんなにも強く、躑躅の色がすべてを照り返すのではなく吸い込んで、だからこんなに鮮やかなのだ。

ほんとうは、世界はもっと、複雑であってほしいと思う。平和であれ、と願う、そういう世界のいちばん大きなところはもっとずっと、単純でいい。いつか、もしそういうことを、もうだれも願わなくていいような世界が訪れるなら、わたしはもっと、世界の細部が複雑であることを所望したい。何度でも、飽きずに知らない路地裏を見つけて喜びたい。とんでもなくカラフルな毛虫を見て、ギョッとしたい。寂れた公園にある、変な遊具。知らない街路樹の名前。指さして、名前を確認して、ゆっくり歩く。自転車でも一輪車でもいい。笑ったまま大きく口を開いて、ほらここ、歯が欠けてる、もうずっとそのままにしてるんだと言って、そのことをだれかと分け合いたい。それがだれであるかは、さして問題ではない。日々のつまらなさに呆れて、すべては知っていることの繰り返しで、だからこの目の前の躑躅の色を、覚えていたい。落ちている花弁の数と、ここにあったはずの前髪を散らすほどのささやかな風。だれも話してくれないなら、わたしがだれかに話したい。急いでここまで漕いできたから、スーツのジャケットが暑い。弁当箱が空になった分、リュックは朝より軽い。信号が、青になった。

(了:ご愛読ありがとうございました。続きは書籍版『せいいっぱいの悪口』でお楽しみください)

堀 静香(ほり・しずか)

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書にZINE『せいいっぱいの悪口』(2019)、ほか晶文社スクラップブック「うちにはひとりのムーミンがいる」連載(2020〜2022)。