電気グルーヴ05-Nothing’s Gonna Change

2018年09月10日 夕方公開終了

文=T.V.O.D

パンス 『A』がリリースされた1997年あたりが、日本社会の分水嶺になっていると僕は考えていて。ただこれは僕が物心つきはじめたタイミングでもあるから、切れ目のように認識しているフシもあると思うんだけどーー。しかし実際、山一證券破綻とか、バブルの残り香が切れてしまって、本当に社会全体の停滞が、少しずつ予感され始めたのがこの時期になると思う。ミュージシャンのアプローチも、99年くらいから変わってくる。

コメカ このインタビューで瀧と卓球が、
瀧:当時は、俺らも自分たちがやってることをメインストリームだと思ってなかったし。メインのカルチャーは、当時だと「じゅわいよ・くちゅーるマキ」とかあったじゃん?
卓球:新宿ぺぺ4階ね?
って発言してるんだけどさ(笑)。90年代前半頃までは、55年体制の終焉やバブル崩壊が、一般層にとってまだリアリティを持って体感されるに至ってなかったんだと思う。それこそ「じゅわいよ・くちゅーるマキ」とか(笑)、凡庸で穏当な「メインのカルチャー」、それはつまり戦後日本における大衆文化だと思うんだけど、そういうものに対する信頼感がまだ保たれてたんだと思うんだよね。現実に対する虚構を立ち上げるとき、措定される現実の現実感を支えるのは、そういう戦後文化だったんじゃないかと。そのあたりが本当に崩れ始めたのが90年代末だった。

パンス うん。たしかに「大衆文化」的な中心点の縮小が、その後現在まで続いている。

コメカ 90年代の電気グルーヴが「カウンター」たろうとしたのは、政治や社会問題に対してではなくて、当時の「大衆文化」を支えていたメディア環境に対してだった。その中で砂原良徳は、「カウンター」ではなく現実と別の「虚構」を立ち上げるやり方でオルタナティブを探っていた、と言えるんじゃないかと。で、ゼロ年代に入る頃からの電気グルーヴっていうのは、そういう環境がまた変化したことに対して敏感に反応し、対応していった。99年には砂原がバンドから脱退し、彼は01年に『LOVEBEAT』を発表してから、長い沈黙に入る。電気の方も00年に『VOXXX』を発表して、同じく活動を長期間停止することになる。「カウンター」たること、オルタナティブな「虚構」を立ち上げること、そういうやり方で対抗しようとした現実が崩れていったことで、90年代の頃のように創作に対する緊張感を保てなくなったんじゃないかと思うんだよね。

パンス なるほどー。ゼロ年代に入って、創作する側にとってもパラダイムが変わったと。カウンター的なパフォーマンスが成立しなくなると、求道的に「イイもの」を作っていくとか、そっちの方向性でいくしかなくなるしねえ。2007年くらいかな、大阪の街中を歩いてたらperfumeの「チョコレイト・ディスコ」が爆音で流れてて、世情に疎くて知らなかったんだけど、パッと聴きの斬新さはないけど良い曲だな~とずっと口ずさんでたのを思い出した。

コメカ 小さな文化的コミュニティが乱立していったのがゼロ年代。インターネットがインフラ化していったのもその状況を支えていた。だから、80年代に構想されたポストモダン的な状況が現実化し始めたのがゼロ年代だったと言える。で、電気はその状況の中で、脱力し快楽主義的な色合いを強めることを選択したんだと思う。復帰作である2008年の『J-POP』は、明確なコンセプトを持たないエレクトロポップソング集という趣の作品で、タイトルの「J-POP」というフレーズは、かつての電気のように皮肉として銘打たれたものではなく、本当に「日本のポップス」として自分たちをカテゴライズする意図をもって名付けられたものだったんじゃないかと思う。

パンス だと思うな~。この時期の表現や行動様式を評して「ネタがベタになった」という形容があるけど、ベタで行くときに「王道で行きます!」って高らかにシフトチェンジするんじゃなくて、ソフト・ランディングして、これまでのファンも見離さず、いまの時代にもきっちり浸透しちゃうのが彼らの優れた部分だと思う。

コメカ 大衆的なポップスとそれに対するカウンター、という構図が壊れた後、小さな共同体内で共有されるポップスというのが乱立する状態になってると思うんですよ。で、電気はそういう状況で機能する良質なポップスを提供する、というスタンスに軟着陸した。だから近年の作風はテックハウス的というか、マイルドで快楽的な楽曲が多いよね。90年代の頃のような引きつった楽曲はほぼ無い。まあもちろん本人たちが高齢化したことも理由としてはあるわけだけど、かつてあれだけ反抗的なキャラクターを演じながら、徐々に快楽主義的な「変なおじさん」(笑)にギアチェンジしていけたのは本当にバランス感覚がすごいと思う。

パンス 最近のーー例えばフレンズとかを見てると、楽曲自体はmihimaru GTミスチルくらいの大衆性があるんだけど、あくまでちょっとオシャレに小さくまとまろうとする志向があるように思う。肩の力が抜けているというか。そこを批判したいわけじゃなくて、僕はそのマイルドさ、慎ましさが好きなんです。
そして、かつてのセンス・エリート対立とか、スタイル・ウォーズみたいなものは、時代が政治的にシリアスになってるがゆえに、より社会的な場で起こるようになっている。

コメカ そうね、2010年代に入ってからは、政治や社会問題の水準での「戦い」が、良くも悪くも復活してきている。で、電気はその水準には頑なにコミットしないスタンスを続けていて、それはそれで一貫しているわけだ。80年代という時代に育てられた人たちの、ある種の着地点としてそういうスタンスがあるんだろうなとぼくは思っている。ただ、ぼくらT.V.O.D.としては、前述したような「戦い」とサブカルチャーとを接続したいと考えているんですけどね。だからこその、「ポスト・サブカル」なわけです。
で、次回からなんですが、90年代までのスタイル・ウォーズにおいて、フリッパーズ電気と一番距離があったグループについて話をしたい。X JAPANです。

T.V.O.D.(てぃーゔぃーおーでぃー)

毎週土曜日、tumblrで政治や文化についての記事を更新しているテキストユニット。URL https://tvod.tumblr.com こめか/1984年生まれ。サブカルチャーや戦後民主主義が好き。テクノポップバンドmicro llamaのメンバー。Twitter @comecaML ぱんす/1984年生まれ。地図と年表を見るのが好き。Twitter @panparth

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    次、X!挑むなあ。

  2. 3人電気の終わりは手法の違いからか。まりんは同じ仮想敵に対する批判めいた作品、電気は自身の手法の総括である作品がそこから出てきた。あの頃のまりんはオウテカと並べられていた

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  6. j-popは思い出のアルバム
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  7. 毎回楽しく拝読してるTVODの連載。ほんとに「VOXXX」のころの電気はこのまま解散しちゃうのかなって思ってたので、現在の軟着陸&順調なペースでの活動は全然予想できなかったなー。 https://t.co/pLsw0jHkom

  8. むう。よく分からない(笑)。音楽はクラシックが中心で世俗の歌は、沢山は聞いていない…。-------電気グルーヴ05-Nothing’s Gonna Change https://t.co/G3wQ9pqySz