15-あいをたいせつにね!

2023年05月07日 夕方公開終了

向坂くじら(さきさか・くじら)

 我が家のリビングはソファーの下にだけカーペットが敷いてあって、そこ以外のフローリングは冷たい。春先とはいえ夜になるとなおさら。夫が帰ってきてシャワーを浴びご飯を食べて、やっとソファに落ち着くのが、だいたい夜の八時ごろ。そのリビングで、わたしは夫に、土下座をしていた。

「お願いします!」

「イヤだっ」

「おねがい……」

ソファに座っている夫を向いて土下座をしているから、体が半分カーペットからはみ出して、めちゃくちゃ寒い。フローリングがお腹と平行にくっついて、効率よくわたしの体温を奪っていく。土下座という姿勢にはこういう不利さもあるのだなと思う。これ見よがしに額を床に擦りつけ、もう一度叫ぶ。

「鼠蹊部に、クレジットカードを、通させてください!」

「イヤだってば!」

 なにをかくそう、愛がスランプである。

 結婚して三年。夫に愛らしきものを表明するために、思いつく限りのことをやってきた。興味がないテレビも隣に座って一緒に観てみたし、肩が凝ると言えばマッサージをしてやった。ジムに通うと言い出した夫を励まそうと、わたしも嫌いだった運動をはじめたが、気づくと夫の方が先に飽きていた。勧められるままにスラムダンクを全巻読み、それは本当によかった。後半など読みながら手が震えた。ディズニー好きの夫のために、ディズニーランドのチケットも、劇団四季のチケットもプレゼントした。たまにわけもなく夫をながめたり、触ったりもした。記念日には手紙を書き、虫が出たら率先して殺した。風呂上がりにはわたしの買った高い方の保湿クリームを勧めてやった。

 しかし、どれをやっても過ぎ去っていくだけで、わかりやすい手応えがない。夫は喜んだりお礼を言ったりしているけれど、しかしそんなことは目的ではない。わたしは愛をやってみたいだけで、夫の評価を得たいわけではないのだ。夫に、なにか、したい。そのことが、愛の、個別である「この愛」の結実であると納得したい。しかし自分が愛に対して感じている希少さに引き比べると、自分にできることの平凡さに腹が立つ。スラムダンクを読み終わり、ディズニーランドから帰ってきたとしても、そのあとにはまた同じような一日がやってきて、どんどんやることが尽きてくる。スランプ。発想の貧困。

 それで行き着いたのが、「鼠蹊部に、クレジットカードを、通させてください」だった。クレジットカードの明細というのはいやなものだ。毎月毎月、自分の放蕩が数字になってあらわれる。そうだ! 夫の身体のどこかが、クレジットカードに反応するとしたらどうだろう? 夫の身体にふれることでわたしのカードからなにか引き落とされ、それが明細に反映されて、いつまでも残るとしたらどうだろう。ちょっとドキドキする。そもそもクレジットカード決済のあの手順はなにか儀式的な気配を帯びている。暗証番号といい、店員が目を背けるそぶりといい——するとしたらどこか。鼠蹊部だ。鼠蹊部しかない!

 以上のようなことを、仕事から帰ってきた夫に滔々と語ったのだったが、夫はガマガエルを見るような目で首を横に振るばかりであり、冒頭の土下座に至る。土下座をしつつも、気持ちでは負けていないわたし。袖口にはしっかりクレジットカードを隠している。夫がいよいよ無視に入ったところをねらい、鼠蹊部めがけて飛びかかった。しかし夫のすばやい反撃、体格差には勝てず、あっという間にソファの上に組み伏せられてしまった。

 不意打ちが失敗した気まずさをへらへらしてごまかしていると、夫が鼻で笑った。

「ばかだ、この人は。頭がおかしい」

 かくして、わたしのクレジットカード奇襲作戦は失敗に終わった。

 

 ところで最近、自分が冷やご飯が好きなことに気がついた。これまでは自分のことを、炊きたてのご飯過激派くらいに思っていたのが、とんでもない。常温に冷えたご飯もおいしいじゃないか。うちの実家には炊飯器がない。母が愛用する羽釜で米を炊く。だから、冷えたご飯は身近すぎるほどだった。けれども結婚によって、わたしの生活に炊飯器が登場する。それではじめて、炊飯器のある家ではお米は常温で冷めていかないのだということを知った。保温機能があるからだ。それで、この頃はご飯というと保温していたものか、炊き立てか、または解凍したものか、のいずれかとなっていた。

 ところがある日、気まぐれに鍋で炊飯をしたために、久しぶりに冷やご飯と対面した。うーん、まあいいか、ぐらいに思って食べると、これが驚くほどおいしい。自分の出した湯気で保湿され、炊き立てよりむしろもっちりしている。噛みごたえもあって甘い。コシのある冷やしうどんのようなおいしさ。衝撃をうけながら、なにもかけずに茶碗一杯ぺろりと食べた。

 それ以来、わたしに常温ブームが巻き起こった。里芋や大根の煮たの、おいしい。味噌汁もいける。もやし炒めはナムル。豚バラの茹でたのは脂が固まってよくないか、と思いきや、口に入れると体温でやわらかくなって、意外なおいしさ。カツ丼、最高。熱いはずのものを冷ますのはいい、では冷たいはずのものを常温に戻すのはどうか。冷奴、うまい。納豆もおいしい。りんごなんて甘ったるいほど。牛乳、これは最悪。牧場の味がする。しかしヨーグルトは案外悪くない。元・炊き立て過激派のわたし、極端に熱い食べものと極端に冷えた食べものとを愛していたはずが、突如常温派に寝返ることになった。

 いまとなっては、アツアツかヒヤヒヤにしか興奮しなかった自分のことが恥ずかしい。常温は大人の世界である。安易に過剰を愛さず、肩の力を抜いて、微細な味わいを楽しむ。実家を離れて日常的に料理をするようになったことも、わたしを常温へ駆り立てた要因のひとつかもしれない。食べものにはみなちょうどいい火加減というものがある。早すぎても遅すぎてもいけない、水加減にしても、塩加減にしてもそう。もともとわたしという人間はすぐに思考が極端になる方で「熱ければ熱いほど、甘ければ甘いほどおいしい」だとか、「よいことはすればするほど、よい」だとか思いがちだったけれど、ものごとには加減があるらしい、というのが、このところの最新の知恵である。

 台所に立って、味噌汁に火を入れている。ネギと椎茸を入れ、味噌を溶かして、一度沸騰させる。白味噌は風味が飛ぶから沸かしてはいけないけれど、赤味噌はちょっと沸かしたほうが好みの味になる。ふつふつ沸いたくらいで火を弱めて、塩抜きしたわかめを入れる。火を止めると、一部始終を後ろから眺めていた夫が、わたしの顔を覗きこむ。

「君の愛情というのはさ、基本的に鍋底の円周を超えていて、鍋肌も焼いているわ、熱効率も悪いわで、エコではないね」

 急にしゃべったと思ったら、失礼なことをとめどなく言われて、びっくりした。以前わたしが同じように料理をしながら「火のはじっこが鍋肌から出ないように気をつけるんだよ」と話したことを覚えていたのだろう、小さい鍋で鍋底からはみ出すほど火を強くしてしまうと、はみ出した部分が高温になりすぎて側面が焦げついてしまうし、火も全体に通りづらい。しかし、わたしの愛情が、なんだって?

 夫はにやっと笑って、さらに続ける。

「でんこちゃんが怒るよ」

 でんこちゃんというのは、東京電力が省エネルギーをPRするときのキャラクターである。黒いポニーテールに赤いリボン、電気の無駄使いをいさめる「でんきをたいせつにね!」が決め台詞。たちまち、そいつがにやにやしながら心の中に現れて、語りかけてくる。

「あいをたいせつにね!」

 でんこになにがわかるんじゃ。

 というか、もとよりガスなんだからでんこには関係ないだろ。

 

 ひとりになったあと、常温のベーコンをかじりながら考える。まさか、愛にも、加減があるのだろうか。愛なんて、あればあるだけよいと思ってきた。愛とパートナーシップに関する双方の合意を確認して、ついでに婚姻関係まで結んだ以上、いけるところまでいきたかった。

 でんこちゃんにまつわる夫の暴言はあのあともう少し続いた。「強すぎて逆に熱効率が悪くなるっていうのが、君っぽくて、いいよね」いいよね、というのはなんなんだと思うが、言いたいことはわかる。適温の愛なら少なくとも、土下座はしないだろう。夫の鍋肌を焼く自分の愛を思うと笑ってしまう。夫に、なにか、したい。けれども、自分が夫に対してできることは、どれも自分が夫に対して感じている愛に適合しない。それでつい、やりすぎてしまう。わたしばかりがもうもうと燃えている。

 ご飯なら外に出しておけばいい。では、愛を適温にするためには?

 そうして、常温ブームに後押しされる形で、「常愛」ブームがわたしを訪れた。ブームと言っても、これはほとんど試練だった。その日いちにちに起きたことをぜんぶしゃべりたくても、少しがまんする。誕生日でもないのにプレゼントを買わない。噛まない。なんでもひと口あげようとしない。急にスウェットの両袖を引っぱって結び目を作り、動きをふさいだりしない。しかし過剰を愛する本来の性質が邪魔をして、「しない」という実践はひどくもどかしい。まず、どのようなチャレンジが行われているか夫に伝わっていないのが悔しい。

 けれど、ひとつだけいいことを見つけた。

 夫は眠りが浅い。早く寝ようが遅く寝ようが、どうしても深夜に目が覚めてしまう。朝になると身体中が痛いと言い、苦しそうにしている。それがいたたまれなくて、毎日布団を整えることにした。「常愛」の実践というよりは生活の雑事としてはじめたことだった。すると、ときどきではあるけれど、夫はよく眠るようになった。

 窓をあけて、一枚ずつ布団を持ち上げ、埃をはたく。敷き布団の上で四つんばいになってシーツのしわを伸ばす。掛け布団の角をつまみ、一枚ずつ高くから、空気を含ませるように重ねる。仕上げに、布団のまわりに掃除機をかける。それは、夫になにかする、というのは違ったけれど、しかしうれしかった。夫に愛を表明する代わりに、いま夫の布団に表明しているのだ、という気がした。

 もしかしたら、愛を適切に温めるのは、それではなかろうか。いつでも、夫になにかしたいと思っている。できたら、夫を大切にしたいと思っている。それをぐっとこらえて、夫の存在をひとつ飛ばしに、代わりに夫の睡眠や、夫の仕事や、夫の家族や、夫の身体を大切にする。夫の持っているものを、わたしが一緒に大切にする。それが、強すぎず弱すぎもしない、愛というものの適温ではなかろうか。

 それですっかりひらめいた気になって、以上のようなことを夫に滔々と語ったけれど、夫は「それもまた考えすぎでしょ」と笑うのだった。

(次回更新5/7、「最終回-春」)

(了)

撮影:クマガイユウヤ

向坂くじら(さきさか・くじら)

2016年、Gt.クマガイユウヤとの詩の朗読とエレキギターのパフォーマンスユニット「Anti-Trench」として活動開始。詩と朗読を担当する。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」、谷川俊太郎トリビュートライブ「俊読」など、多数出演。2021 年、Anti-Trenchファーストアルバム「ponto」「s^ipo」二枚同時発売。同年、びーれびしろねこ社賞大賞を受賞。2022年、第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)を刊行。同年、埼玉県桶川市にて「国語教室 ことぱ舎」を創設。慶應義塾大学文学部卒。

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  1. めっちゃ笑ったし、最高ではないか。次回最終回らしく寂しいが、単行本発売が近いのだとしたら嬉しい。

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