09-あんまり、遅くならずに帰ってこようね

2023年02月12日 夕方公開終了

向坂くじら(さきさか・くじら)

 結婚以降、夫と出かけたあとに消化不良を感じることが増えた。というとよくある倦怠期に聞こえるが、おそらくそれではない。夫といること自体が退屈になったという感触はなく、むしろ恋人時代よりおもしろいと思うほどだ。もともと共におしゃべり好きで、かつあまりロマンチストでないために、いちばんメジャーなデートコースは路上、次いでコンビニのイートインであったふたりである。路上がコンビニよりも上に来るのは、なんといってもお金がかからないからだ。万年すかんぴんなふたりでもあった。しかし家があれば、タダでいくらでも座ってしゃべっていられる。とにかくわたしの夫というのは、レストランや美術館にいるときよりも、そのへんでしゃべらせておくほうが愉快な男なのだ。同居したからすなわち倦怠、というのは、どうもわたしの感覚にはそぐわない。

 不満に思っているのは内容ではない。時間、つまりは量だ。結婚してからというもの、出かけ際に車に乗り込みながら、夫はかならず念を押すようになった。「あんまり、遅くならずに帰ってこようね」。これが毎回釈然としない。「いまからお昼食べて、用事ぜんぶ済ませても、夕方くらいには家に戻ってこれるね」。その、「これるね」というのはなんだ、と思う。

 わたしたちがなぜ路上にばかりいたかといえば、前述の理由に加え、とにかくデート時間が長かったから、というのも大きい。朝九時に合流して夜十一時まで遊んでいることはしょっちゅうで、気まぐれに始発で集まることもしばしば。友だちに話すと、なにをそんなにすることがあるのか、と呆れられたが、ないに決まっている。それがないから、路上をぶらつくのだ。コンビニでもイートインは夜十時に閉まってしまう。そこから、門限ギリギリまでの一時間、わたしたちは放り出されたようにして歩く。その寄る辺なさが好きだった。時間がつぶれればなんでもいいとはいえ、どこか目的地は欲しいから、ちょうどいい時間で着くどこかの駅を目指す。そうすると、都市のけもの道のような、よそものが歩くためには作られていない道ばかりがあらわれる。どうやって建てたのか想像もつかない坂道の住宅街、唐突に出てくる階段、落書き、法外な雰囲気のする自動販売機、用途のわからない巨大な円柱、静まりかえった幼稚園、そんなものの中を、わたしたちは歩いた。まったくの偶然で出会う、もう二度と見ないかもしれない雑多なものたち。知らない道はいつもわたしの想像を超える。そのなかに身を投じることは、わたしの快楽だった。

そこへ、「夕方くらいには家に戻ってこれるね」ときた。夫はといえば、さほど未知のものを愛する性質ではない。なるべく自分のコントロール下でものごとが進むことを好み、整理整頓や作業の効率化で心を弾ませる、わたしからすると信じられない嗜好の持ち主である。なるべくお金をかけないのも、なるべく長く共に過ごすのも、その結果夜の路上にばかりいたのも、そこが奇跡的に夫の合理性とわたしの無頓着とが合致する点だったかららしい。結婚するまでそんな大きなズレに気づかなかったのだから、おそろしい。

 門限や貧しさという制約がなくなって、夫はやっとのびのびとふたりのデートを自分の管轄下に置けるようになったのだろう。「おれはね」と夫はいう。「早起きして、やらないといけないことが早くに終わって、家でのんびりするというのが、いちばん充実した気持ちになるんだよ……」

 しかしわたしにしてみると、計画通りの一日にはどこか張り合いがない。とにかく予想外のことが好きなのだ。ときには知らない道を歩くような時間がほしい、だらだらとしたい、それでいてはしゃいでいたい。一日の終わりまで予定を立てるなんてせずに、次の動きだけ出たとこ勝負で決めて、常にまだ知らないことの中へ歩いていきたい。そしてそれが、夫がさっさと切り上げたい「やらないといけないこと」の中へ数えられてしまうのかと思うと、むしょうに切ない気持ちがする。気持ちがするのだよ、と夫に話すと、「いや、君はぼけっと歩いていただけだからそういいますが、いつも地図を調べていたのはおれなのであって、おれはもとよりそんなに意外な道を歩いているわけではない」と言いかえされるのだった。

 ささいな消化不良というのは馬鹿にできないもので、考えているとだんだん自分ばかりが正しいように思われてくる。まずもって、あの夫というやつは臆病すぎる。合理的であるということを隠れ蓑に、ただ予期せぬものの訪れを怖がっているだけ。なんだい、なんだい、びびりやがって。くされチキンがよ。だいたい、すべて計画通りの毎日なんてつまらないじゃないか。本来世の中の大半のことは自分の理解の範疇を超えているのであって、そこを外れずに暮らそうとしていたら、きっと見る世界のほうをどんどん狭めていってしまうに違いない。そうしたら当然次には、他者に対しても冷たくなっていくに決まっている。つまり、予想外のものを受け入れることは、第一に倫理的なことなのだ。そうだ、極端にいえばわれわれは全く無知の状態で生まれるのであって、未知のものに出会うことこそ生きることじゃないか、ほら、だから、十六時には家に引っ込むだなんて、そんな、ねえ、そんなさびしいことをいわなくても……。

 

 そのくされチキンがある日、なんの前触れもなく急須を一式買って帰ってきた。とくに凝ったデザインなわけでも、とくべつ使いやすそうなわけでもない、ごくごく普通の白い急須がひとつ、同じ柄の湯呑みがふたつ。聞けば近所のホームセンターで安く買ったという、工場で大量生産しているようなやつだ。「えっ、なんで急に。なんでこれ買ったの?」とたずねると、「お茶を淹れて飲みたくて……」などという。

 しかしそんな購買の根幹みたいなことだけをいわれても、わたしからするとなんの理由にもなっていない。わたしが新しいものを買うときというのは、よっぽどの必要に迫られるか、よっぽどそのものを好きになったときかのどちらかだ。そして前者の場合、事前にあれこれ確認をせずにはいられない。買うまでにできるだけ多くの情報をチェックし、最終的にはなるべく店舗に行って手ざわりや重さを確かめて、ようやく購入ができる。

 わたしが急須を買うとなったらたいへんだろう。できたらまず、製造地による陶器の特徴から調べたい。どんな形が主流で、それぞれどんな利点があり、どんな文化に基づいているのか……というような基礎知識をインプットする時間も欲しい。しかし歴史のことばかりやっていると新進気鋭のインディーズ急須作家(実際そんな人がいるのかは知らない)の存在を見逃してしまいそうだから、SNSや個人ブログの情報もチェックしたい。当然、口コミという口コミも熟読したい。やっとひとつに絞ったとしても、どんな人がその急須を使っているのかという実態が見たい、それも芸能人やインフルエンサーではないリアルな実態が見たいために、製造元のエゴサーチかというぐらいツイッター上で製品名を検索し、利用者という他は全く関係ない他人のツイートを遡りまくって、結果的にネットストーカーのようになっていることさえある。

 夫は呆れるが、これがたまらなく楽しい。もはや買いたくて調べているのか、調べたくて買うことにしているのかも怪しい。だから逆に、ときどき一点もののマグカップやスヌードなんかに出会い、ずぎゃん、と衝動買いするときには、それはそれでものすごく興奮する。これもまた、買うことそのものに、というよりは、わたし、なにも調べずに買ってしまうほど、このもののこと好きになってしまったのだわ、というのに興奮するのだ。

 つまりはどちらにしても、自分が心から好きになって選んだものしか手元に置きたくないということに尽きる。お金も、物欲も、買い物をする頻度もそこまでない分、わずかな買い物は完璧にすばらしいものにしたくなってしまう。それに、家の中には好きなものしか入れたくない。インテリアや整理整頓が好きだからではない、逆だ。どうせめちゃくちゃに散らかしてしまうから、好きなものしか最初からなければいかに散らかっていてもなんとなく全体がうれしい感じにまとまる、という負のライフハックである。

 そこへやってきた、大量生産品の急須。言っちゃ悪いが、好きなものでそろえた部屋にとっては目の上のたんこぶであり、そして趣味の購買にとっては機会損失に感じられた。陶器もキッチン用品も好きだから、急須を選んで買うなんて、考えただけで楽しいのに。それも、当の夫が気に入って買ってきたのならまだいいが、どうやら「近所で安く買えた」以外のアピールポイントはないらしい。その、近所から外へ出ようとせず、新しい情報のひとつも入れないままにものを買える態度にもむしゃくしゃする。さすが、くされチキンの名に恥じないぜ! おそらく何の気なしに急須を買った報告をしたであろう夫は、わたしの不服そうなのを敏感に察知して、さっそく機嫌をとるように温かいお茶を入れてくれた。それもなんかちょっと、ずれているぞ、と思う。

 

 それから数年経ったいまでも、急須は食器棚のなかにあり、現役で使われている。急須のあとにも、夫はあれこれ乱雑にものを買ってくる。そのたびにわたしはちょっとのけぞり、しかし、やむなく受け入れる。

「すばらしいものを買った」だけにしたい生活に、「近所で安く買えた」がノイズのように混じってくるのを、目を細めて眺めている。机に座ってこの原稿を書いているあいだ、足元があたたかい。寒いと言ったら夫が急に買ってきてくれた電気あんかをつけているからで、あたたかいのはいいのだが、生地がちょっと足の裏に引っかかって不快だ。きちんと調べたらもっといいものがあったはずだと思いながら、これを使いつづけている。これまた夫が買ってきた洗濯物干しは、すでに洗濯バサミという洗濯バサミが劣化し、このまま風化するのではないかという速度で使いものにならなくなった。先週突然届いたHDMIの切り替え機は、いざ開けたら別売のケーブルがないと使えないことが判明し、いまのところ何の役にも立たない黒い立方体である。さっき届いた荷物がおそらく、そのケーブルだろう。なにをどうやったらそんなに芯のない購買ばかりを繰り返せるのか。

 ひょっとしたら、くされチキンは、わたしのほうなのかもしれない。確かにわたしは、外の世界で出くわす予期せぬものに対しては強いけれど、家の中にそれが入ってくることに関しては脆弱である。その点、夫の方がタフなのかもしれない。だからあんなにぞんざいな買い物をできるのかもしれない。もしもそうなら、わたしたちは単に、冒険できる場所と安心したい場所とが違うだけ、ということになる。夫は家の中にいてこそ、予想を外れたもの、雑多なものを受け止められるのではないか。夫にない勇敢さがわたしにあるとしても、わたしにはない勇敢さもまた、夫にあるのか。

 白い急須は、ふしぎなもので、今となっては少しかわいい。本当に特別いいところのない急須だが、割れたらさびしいだろうし、もう定価以下では誰にも譲れない。しかしまあ、定価より出してくれるというのなら、少し考える。そしてたぶん、夫は売ると言うと思う。

(次回更新2/12、「10-なんでこんなところにいるんだっけ」)

 

撮影:クマガイユウヤ

 

向坂くじら(さきさか・くじら)

2016年、Gt.クマガイユウヤとの詩の朗読とエレキギターのパフォーマンスユニット「Anti-Trench」として活動開始。詩と朗読を担当する。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」、谷川俊太郎トリビュートライブ「俊読」など、多数出演。2021 年、Anti-Trenchファーストアルバム「ponto」「s^ipo」二枚同時発売。同年、びーれびしろねこ社賞大賞を受賞。2022年、第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)を刊行。同年、埼玉県桶川市にて「国語教室 ことぱ舎」を創設。慶應義塾大学文学部卒。

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  1. 09-あんまり、遅くならずに帰ってこようね https://t.co/krQoq3lyaQ

    ”予想外のものを受け入れることは、第一に倫理的なことなのだ”

  2. 09-あんまり、遅くならずに帰ってこようね https://t.co/eBuoBhJ9Rk 犬も食わないであろう配偶者に対する愚痴でさえ、向坂さんの筆にかかればこの調子。最高w